以前から頭の中に概念としてあったことですが,最近読んでいる本の中にその概念を表す言葉に出会いました.これがタイトルの「シフティング・ベースライン症候群」という語です.
私はたまに生き物に興味がある子供たちにトンボや昆虫のことを話す機会があり,そのとき子供の頃にした虫採りの話をすることがあります.小学校3年生のとき,家のすぐ近くにまだ戦争の爪痕が残っているような焼けただれた洋館があり,その庭にカナブンがたくさん集まる木がありました.カナブンというのは当時は「駄物」扱いで,アオカナブンでやっと捕まえようかという意欲のわくレベルでした.とにかくカナブンはたくさんいて塊になって樹液を吸っているので,両手ですくうようにして十から二十の採れるだけのカナブンを捕まえ,おにぎりを握るような格好で手の中に収め,そしてパッと空に向かって投げて逃がす,というようなことをやって遊んでいました.
こんな話をしたときによく感じることですが,その感覚が今の子供たちには実感として伝わりません.何を当たり前のことを言っているのだ,今は昆虫が減っているからだろう? と言われそうです.それはその通りなのですが,そのときに私が感じるのは,今の子供たちが自然を見るときには,生まれてから接してきた自然環境を基準(ベースライン)にした感覚を持っているからだろうということです.
ところで私の原体験は,1971年に出かけたアカトンボが無数に飛ぶ六甲山地の裏側に広がる田園地帯でした.山間に広がる普通の田園地帯ですが,最寄りの駅から農道を歩いて短時間網を振っただけで,ナツアカネ,ミヤマアカネ,マユタテアカネ,リスアカネ,コノシメトンボ,ネキトンボ,タイリクアカネが採れました.これらが,ポツポツ止まっているのではなく,多くは電線に鈴なりに止まっており,一方では実る稲穂の上をたくさんのミヤマアカネがひらひら飛び回っているのです.それ以外にも,カトリヤンマ,オニヤンマ,ハグロトンボ,ギンヤンマなどが飛んでいました.下の標本はそのときのものです.
こういうトンボが群れている姿は,私たちの生活空間のすぐそばに普通に存在していました.そして図鑑に書いてある生息環境を見つければ,そこには必ずと言っていいほど目的の種,あるいはそれ以上の種が見つかりました.出かけることさえいとわなければトンボに出会えたのです.つまりこういった感覚が私のトンボという生き物を見るベースラインになっています.
しかし今の子供たち,それもトンボに興味を持っている子供であっても,通常の生活範囲でそのような状況に出会うことはほとんどないのではないでしょうか.そして今ではある種の典型的な生息環境に出かけてもそのトンボに出会うことができないのが普通になっています.ただ目的のトンボを探そうとすれば,それなりの努力をすれば今でもその種を見つけることはできます.ですから「トンボはがんばって探せば見つかる昆虫である」という感覚が,今のトンボ好きの子供たちのベースラインになっているように思われます.
このように世代間でものを見る基準,つまりベースラインが変化していくことを,シフティング・ベースラインと呼んでいます.そしてこの後に「症候群」とつくのは,このベースラインの変化によって何かマイナスの状態が現出しているという意味が込められているのだと思います.
生物多様性というものに価値があると前提すれば,その減少はマイナスの価値になります.生物多様性が減少した状況の中で育っている子供たちにその実感が受け継がれないとき,この社会の中で重要な価値感覚が時代とともに失われていくという「症候」が存在するととらえることができます.
私はトンボのこと以外は何も言うことができません.ですから,トンボという生物群を通して,生物多様性減少についてのシフティング・ベースライン症候群を「治療」する方法を追求する必要があるように,最近特に感じています.