トンボ歳時記総集編 春:4月−5月上旬
春を知らせるコサナエの仲間たち
写真1.コバノミツバツツジが満開の4月の雑木林.
春の妖精といったらちょっと言い過ぎですが,可憐なコサナエのなかまが一斉に出てくるのが,春の楽しみです.暖かい春の光を浴びながら,小さなサナエトンボたちがたくさん飛んでいるのを見ると,まだ自然が残っているなという確信が持てます.春のトンボは一斉に羽化してくるものが多いので,とくに羽化直後の時期は,池のまわりに未熟なコサナエのなかまが飛び回っています.
兵庫県には,コサナエのなかま,コサナエ属のトンボは4種分布しています.これは,日本にいるコサナエ属の全種です.そのうち,兵庫県南部には,タベサナエ,オグマサナエ,フタスジサナエの3種がいます.これら3種は同じ池で繁殖している場合もあるのですが,このうちの2種だけが同じ池にいることが多いようです.
さて,この3種の中でいちばんはじめに−といってもほんの少し早くですが−出てくるのがタベサナエです.タベサナエは,他の2種と少し違っていて,池だけでなく川にも住みついています.4月の上・中旬には羽化していて,4月の中ごろに,未熟な個体があちこちに止まる姿が見られます.池のまわりに生えていて,この時期に若葉が開くコナラなどの葉にぺたっと止まる姿がよく似合うようです.
No.005:タベサナエ
Trigomphus citimus tabei
タベサナエの消長図
写真2.4月9日.タベサナエの羽化.コサナエ属3種のうち,タベサナエがいちばん早く羽化してくる.羽化殻に背棘が見える.
写真3.4月10日.未熟なタベサナエが,日当たりのよい草原で体を温めたり,摂食したりしている.
写真4.4月17日.川に生えているヨシの葉につかまって羽化するタベサナエのオスとヨシの根元に付いている羽化殻.
写真5.4月29日.池の周辺に生えている木の葉に止まる成熟が進みつつあるタベサナエのメス.
繁殖活動は4月下旬から始まります.オスは生息地の,まさにメスがやって来るそのポイントで静止しています.メスは,池の水際の岸の上,つまり陸上で産卵をします.オスはそこでメスを待っているのです.うまくメスがやって来ますと,オスはメスを捕捉し,樹上へ連れ去ります.低いところへ止まることが少ないので,交尾を見る機会がほとんどありません.しかしメスもプロフェッショナルで,オスに見つからないところで産卵することが多いのです.メスにはオスが見えているのでしょうか?.
産卵は,岸の上で停止飛翔をし,しばらくしてから体全体を振って,卵をばらまきます.卵は一粒ずつばらばらに,広がるように散らばります.5月の中旬まで,頻繁に産卵が見ら,その後はだんだんと数が減っていくようです.6月に入るとほとんど姿が見られなくなります.
写真5.左:5月10日.右:5月13日.オスは岸辺の落ち葉の上に止まったり,池の端の木の葉の上に止まってメスがやって来るのを待つ.
写真6.5月10日.産卵にやって来て,停止飛翔をしているタベサナエのメス.
写真7.5月10日.いろいろなところで産卵をするメスたち.岸に生えている植物の下にもぐりこんで産卵するときもある.
写真8.5月3日.水際の岸辺で産卵しているメス.水面に出ることはなく,陸上で産卵する.
タベサナエと同じくらい早く羽化してくるのがオグマサナエです.他のコサナエ属のトンボと同様に,一斉に羽化してきますので,未熟な成虫が池の周囲にたくさん止まっているのが観察できます.他の3種に比べると,どちらかといえば,水生植物の少ない,広くて深い池を好んでいるように見えます.未熟な成虫は木の葉にも止まりますが,地面に止まるのが好きなようです.日当たりのよいコンクリートの上に,集団で止まっているのをよく見ます.兵庫県南部では,他の2種に比べて,少し数が少ないようです.
No.006:オグマサナエ
Trigomphus ogumai
オグマサナエの消長図
写真9.左:4月10日.オグマサナエの羽化.オグマサナエはタベサナエとほぼ同じ時期,4月の上旬〜中旬にかけて羽化する.
写真9.左:4月25日.テネラルなオグマサナエのオス.オグマサナエの未熟な個体は,日当たりのよいべたっと地面にくっつくように止まって暖をとる.
写真9.左:5月5日.春の午後,コンクリートの上に止まっているやや未熟なオス.右:4月28日.側溝の枯れ草に止まる未熟なメス.
4月の下旬から5月のはじめころ,成熟したオスが池に現れます.たいがいはフタスジサナエやタベサナエに混じって止まっています.おそらくメスを待っているのでしょうが,残念ながら,まだメスを捕まえて交尾態になった瞬間を見たことがありません.タベサナエやフタスジサナエでは,池で産卵を観察しているときに,メスを連れ去る姿や目の前で交尾する姿をしばしば観察しています.個体数が少ないせいかもしれませんが,まだ私がオグマサナエの生態を十分つかんでいないことが原因とも思えます.
さらに,池に出ていてよいような晴れた日に,池から少し離れた道の上やコンクリートの壁に,成熟したオスが止まっているのをよく見かけます.場所によっては池に出ている個体数より数が多いくらいです.時刻は9:30から15:00過ぎの間で,池に出て繁殖活動を行っている時間帯と考えられるころです.池から離れているところでメスを探しているのでしょうか.実際,近くに池のない農道で,オグマサナエのオスがメスを捕らえて,タンデムになろうとしているところを目撃しています.オグマサナエの繁殖行動は,タベサナエやフタスジサナエと少し違っているように感じます.
写真10.5月1日.成熟して池に現れたオグマサナエのオス.
写真11.左・右下:5月2日.右上:5月11日.成熟して池で活動するオスたち.淡色部が薄緑色に変わっている.
写真12.左上左下:5月5日,その他:5月7日.日中,成熟オスたちが,池に出ず,周辺の道や壁に止まって過ごしている.タンデム形成も見られる.
私は,オグマサナエの産卵を観察することに,あまり成功していません.私のオグマサナエの観察フィールドは4カ所ほどあり,毎年意識して観察しているのですが,この10年間でまだたったの2回しか観察できていません.上の写真12のように,池から離れたところにいるオスは結構見つかります.しかし池にたくさん集まっているのをあまり見ないために,どこで産卵しているのか,池の特定ができないのです.
写真10,11にあるように,2015年にはオグマサナエがこのうちの一つの池に多く集まっていました.そして5月2日の夕方に,やっと2例の産卵を観察しました.産卵行動は特別なものではなく,フタスジサナエやタベサナエとよく似ています.岸近くの水際や岸の上で停止飛翔して,ときどき体を振って水のない地面に卵をばらまきます.
いずれにしても,私にとって,オグマサナエの生態はまだ謎めいた部分があります.
写真13.5月2日.オグマサナエの産卵.すべて同じ個体で,水面上で岸に向かって卵をばらまいている.
写真14.5月2日.2頭目のオグマサナエの産卵.こちらの個体は,岸の草の上で産卵している.タベサナエとよく似ている.
写真15.5月5日.(左)オグマサナエは垂直に切り立ったような岸壁でよく産卵する.体をひねって,岸に向いた瞬間に放卵する.(右)卵はばらばらに飛ぶ.
写真16.5月5日.しばらくは岸近くで停止飛翔をする.腹端は垂直になるほどに曲げる.
写真17.5月5日.オグマサナエが体をひねるようす.停止飛翔のあと,岸に向かって,首から下をひねるようにして放卵する.
タベサナエやオグマサナエに比べて,ほんの少し羽化が遅れるのがフタスジサナエです.それは,毎年のように羽化殻を調べていると,フタスジサナエの羽化が始まる前に,タベサナエやオグマサナエの羽化殻が発見されるからです.兵庫県南部では,フタスジサナエの個体数が一番多く,4月下旬,各地で羽化が観察されます.その際同じ場所でまとまって羽化することが多いようです.初めのうちはオスの羽化が目立ち,4月の末近くなるとメスの羽化が目立つようになります.雄性先熟しているように思えます.下の写真ではありませんが,背中が割れ始めてから翅を開いて飛び立つまで,55分19秒かかった記録があります.
No.007:フタスジサナエ
Trigomphus interruptus
フタスジサナエの消長図
写真18.4月9日.フタスジサナエの羽化.最近は気温上昇のせいか,フタスジサナエの中に早く羽化する個体が出てきた.通常は7月下旬なのだが....
写真19.4月20日.フタスジサナエの集団羽化.羽化殻も含めると,同じ場所で4頭羽化していることが分かる.
写真20.4月20日.フタスジサナエの羽化過程.羽化を始めてから30分ほどで翅と腹部の伸長が終わっている.
羽化が終わると,周辺の樹木の上や草地に広がって,主に摂食をしながら過ごします.4月下旬に,羽化が集中する池の周辺を探索すると,葉を広げたばかりのカラスノエンドウ,ヨモギ,ゼンマイなどの葉の上に止まっている未熟個体をたくさん見ることができます.この時期の個体は,オスもメスも淡色部が鮮やかな黄色をしていて,とても美しいです.
写真21.4月20日−5月4日.未熟な個体が,池のまわりの木々の葉の上や,休耕田に生えた草に止まって,主に摂食活動をしている.
そして,4月の下旬には産卵活動が見られはじめます.この時期にまだ羽化をしている個体もあるのですが,だいたい成熟状態はそろっているようです.ある繁殖活動の最盛期の朝,生息地を訪れてみると,フタスジサナエたちはまだ池に出ておらず,周辺の樹木の葉の上や,草地で朝食をとっていました.オスもメスも混じってみられましたが,時に交尾をしているペアも見られました.
写真22.5月19日.早朝に,池の周辺で過ごしている,成熟したフタスジサナエたち.
写真23.5月19日.池ではなく,朝の摂食時に交尾をしている.メスは獲物を放さず,食べながら交尾を受け入れている.
成熟が進んだころ,繁殖活動が行われる池を10時ころに訪れますと,まず目につくのは,フタスジサナエのオスが池の周囲に止まってメスを待っている姿です.そこへメスが産卵に入ってくると,オスはメスを捕捉して,交尾態になります.オスは,産卵中のメスを捕捉することもあるのですが,産卵が終わって飛び去るところをつかまえることの方が多いようです.池の周囲にオスが多いときには,連結して交尾しているペアに別のオスがつかみかかって,三連結になることもしばしばあります.メスは,池に張り出している木の陰や,池周囲の草の間に入りこんで,オスに見つからないように産卵することが多いです.産卵途中によく止まります.産卵が終われば,木々の間をすり抜けるように上昇して,林の中に姿を消していきます.
写真24.5月4日.繁殖活動が行われている池では,たくさんのオスが,池周囲の草に止まって,メスを待っている.
写真25.4月28日 9:51.岸に生えている植生の間で,かくれるように産卵しているメス.ときどき静止する.
写真26.左:5月4日 9:44.右:5月11日 9:43.草の陰に隠れるようにして産卵しているメス.
写真27.左:5月1日 10:00.岸で産卵していたメスが,産卵を終えたときにオスに捕まり,交尾態になった.
写真22.左:5月2日 11:30.右のオスと中央のメスが交尾しているところへ左のオス(前の黒条が切れている)が割って入り,横取りした.
このように,オスが水辺にやって来た後,午前中を中心にメスは産卵にやって来ます.しかし,もっとも産卵によくやって来るのは,オスのいない夕方です.また朝,オスが出てくる前に産卵するメスもいます.春の朝や夕方は,まだまだ気温が低いのですが,フタスジサナエのメスはあえて朝夕の時間帯をねらっているように見えます.春のトンボは暖かい日中の時間帯になってから活動すると考えがちなのですが,そうではないところにトンボの行動の面白さがあります.なおオグマサナエやタベサナエも夕方に産卵に来ます.
写真28.5月2日 8:00.早朝とはいえないが,まだオスが出てきていなくて,太陽の日差しが林の影になっているころで産卵.草に朝露がついている.
写真29.左上:5月1日 17:23.左下:5月2日 17:47.右:5月1日 16:55.オスが帰った後,夕方には次々と産卵に来る時間帯がある.
コサナエ属の最後のメンバーは,コサナエです.コサナエは兵庫県では,豊岡市,香美町,新温泉町など北部にのみ分布していて,原則的に,他のコサナエ属3種とは分布が重なっていません.ただし,豊岡市日高町ではフタスジサナエやタベサナエが見つかっていて,分布が接しているところがあるようです(東,2010).
コサナエの生態は,他のコサナエ属の各種とほとんど変わりません.羽化は4月中下旬に始まります.北部だからといって,気温が低いわけでもなく,特に遅くなるわけでもないようです.むしろ南部より成虫の出現は早い感じさえします.豊岡市といえば,天気予報のニュースでよく出るくらい,気温の高いことで有名です.ただ兵庫県の北部は,円山川流域を除けばほとんどが山地になっていて,標高の高いところでは羽化が5月上旬にずれ込みます.
No.008:コサナエ
Trigomphus melampus
コサナエの消長図
5月の凹みはこの時期の調査が行われていないためである.
写真30.4月21日.コサナエの一斉羽化.腹部を持ち上げる性質があるのだろうか,こういった感じの姿勢をよく見る.
写真31.左右上中:4月21日.右上:4月20日.右下:5月3日.処女飛行から成熟まで.
写真32.5月5日.兵庫県北部の高標高地での羽化.平地より半月ほど遅れて羽化する.
羽化した後は,池の周辺の草地や樹上で生活し,早ければ,4月下旬には繁殖活動が始まります.繁殖活動が始まると,池の周辺でときどき交尾が見られます.稀に三連結も観察できます.オスは樹上から降りてくるようにして水辺に訪れます.そして岸辺の草の上や落ち葉・枯れ枝に止まって,メスを待ります.ときどきオスどうしが追飛しているのが観察できます.驚かせると樹上へ上がります.メスは,オスの止まっているところから微妙に離れたところで産卵をします.草の間に入りこみ,ときどき体全体を振るようにして放卵します.メスは暴れまわるように活発に移動し,産卵することがあります.卵は陸上に落ちます.オスが産卵メスを追いかけ回すのはあまり見かけません.メスのかくれ方がうまいのか,それとも私がカメラを構えてメスに密着しているからオスが近づけないのか,どちらでしょうね.
写真33.5月5日.池から離れた樹木の葉の上で過ごすコサナエのオス(左)とメス(右).
写真34.5月5日.コサナエの三連結.左のオスと中央のメスが交尾していたところに,右のオスが割り込んだ形.
写真35.左右上中:5月5日,その他:4月29日.池でメスを待っているオスたち.岸に沿ってオスは,ホバリングを交えながらよく飛ぶ.
写真36.4月29日.コサナエの産卵.池の畔の水のない岸の上で産卵をしている.
写真37.左:4月29日,右:5月5日.コサナエの産卵.産卵の途中,羽化直後のオオイトトンボをつかまえ捕食.その後産卵を中断して飛び去った.
写真3782.左:4月29日,右:5月24日.珍しく飛び散る卵がぼんやりと写っている(左:矢印).コサナエの樹上での交尾(高標高地で時期が遅い).
コサナエは,フタスジサナエと同じく,6月中ころまで生き残りの個体を見ることができます.今まででいちばん遅く姿を見たのは,6月23日でした.他のトンボを観察していたら,樹上からポタリとコサナエが水面に落ちてきました.見ると,ムシヒキアブが背中に口吻を突き刺していました.老熟した個体はやはり動きが鈍くなるのでしょうか.このコサナエは,1時間40分後には,アメンボのエサと化していました.生態系の物質循環が目の前で起きているのですね.
写真39.6月23日.ムシヒキアブに襲われたコサナエのオス(右).時間がたつと,アメンボのエサと化していた(右).
コサナエ属の4種のトンボは,4月から5月にかけて,このようにたくさんの個体が姿を見せ,活発に繁殖活動を行います.そして6月には,だいたい姿を消します.コサナエ属のトンボが消えたら,トンボの世界は,夏に衣替えします.こんな言葉はありませんが,春の「示準トンボ」ですね.
写真40.6月10日.まだまだ元気に活動しているフタスジサナエのメス(左)とオス(右).