トンボ歳時記総集編 9月中旬−10月

稲作とアカトンボ
写真1.山のふもとに広がる,収穫間近な水田地帯.

 日本人の感覚として,田舎−農村−水田地帯という連想をする人が多いのではないかと思います.そしてアカトンボは農村で見られる代表的な昆虫と位置づけられてきたと言ってよいでしょう.つまり,水田とアカトンボは,日本人の(といってもある年齢以上でしょうが)気持ちの中で密接に結びついていると思います.実際,水田で育つアカトンボは複数います.その中で全国的な代表種は何と言ってもアキアカネでしょう.兵庫県でも例外ではなく,アキアカネは水田で繁殖している例が多いと思います.ただし,アキアカネが水田にやってくるのは,ふつう稲刈りの後です.
 それに対してナツアカネは,稲刈り前の水田に集まって産卵活動を行います.他府県ではどうなのかあまり詳しくは知りませんが,少なくとも兵庫県南部では,ナツアカネがその時期の代表種です.こういうことから,稲が実っている時期に現れるナツアカネは,水田との結びつきをより強くイメージさせるトンボであると,私は感じています.

写真2.8月19日.低地の山裾の木陰に止まる未熟なナツアカネのオス.腹部は少し褐色味を帯びている.
写真3.8月21日.低山地の林道に止まっている未熟なナツアカネのオス.腹部や前胸は少し赤みを帯び始めている.

 ナツアカネについては,6月の自宅羽化の記録がわずかにありますが,通常,羽化は7月に入ってから行われているようです.不思議なことに,私は今までナツアカネの羽化を野外で見ることがありませんでした.理由ははっきりしません.水田でも,アキアカネの羽化はときどき見かけますが,ナツアカネではまったく見たことがありません.幼虫は,6月に,水田でたくさんすくった経験はありますので,育っていることは間違いありません.ただ,アキアカネに比べて羽化が約1ヶ月遅いことが,水田での羽化成功に何らかの影響を与えているのかもしれません.あるいは羽化した成虫が,アキアカネのようにしばらく近所にとどまらず,すぐに遠くへ移動してしまうのかもしれません.
 羽化に加えて,未熟な個体を見る機会も意外と少ないです.私がトンボ歳時記を始めてからの10年間で,未熟な個体が生活している時期と考えられる7月の目撃記録はゼロ,8月の目撃記録は2例だけです(写真2,3).ずっと以前,1989年8月1日に一度だけ,山裾の空き地にたくさん群れているナツアカネの未熟な個体を見たことがありますが,これは今から考えると非常に珍しいことだったように思えます.図鑑の記述*1によりますと,「羽化水域からあまり遠くない木立などに分散して生活」と書かれています.極めて普通種なのに,未熟な時期をどこでどうして過ごしているのか,意外と観察できないトンボです.
 さて,消長図を見て分かるように,ナツアカネの目撃数は,9月中旬以降に増加します.稲穂が実る水田での産卵活動が行われる時期です.

写真4.9月26日.山裾に広がっている,稲が茂る水田で,連結打空産卵を行うナツアカネのペア.卵が落ちているのが白い点で見える.
写真5.9月26日.稲穂の間にもぐり込んで産卵を続ける.
写真6.9月26日.左は卵が落下しているのが見える.
写真7.9月26日.腹端から卵が数珠のように並んで出てくる.
写真8.9月26日.稲の高さよりかなり高く舞い上がって産卵することもある.卵が高いところから落下している.

 ナツアカネは,写真のように,実る稲の上で連結打空産卵を行い,稲の上に卵をパラパラとまき散らします.稲の中に深くもぐりこんだり,上空へ少し離れて飛んだり,色々です.産卵を見ていると,稲穂の「水面」をふわふわと浮かんだり沈んだりしているようです.産卵が終わるとオスはメスを放します.そのとき,単独でぶらぶらしていたオスがメスを捕まえ,稲の葉に止まって交尾に至ることがあります.ふつうのペアが水田にやって来る時にはすでにタンデムになっていますので,産卵前の交尾は,周辺の林縁などで行われているのではないかと思われます.

写真9.9月26日.メスと出会うことができず,単独で飛び回っているオス(右上)が,産卵が終わって放されたメスと,水田で交尾している.

 さて,水田と結びつきが強いナツアカネですが,最近は水田でこのように産卵するナツアカネを見る機会が激減しました.同じ水田生活者のアキアカネが激減した理由として,農薬の種類の変化が指摘されています.この影響はナツアカネにも当てはまることは疑いもないことだと思われます.これが水田での産卵活動の観察機会の減少につながっていることも,おそらく間違いないことでしょう.
 では,最近ナツアカネが見られるのはどういった場所かといいますと,それは,湿地の縁に広がる草地,池の畔の草地,湿地の草の上などです.大昔,まだ人類が水耕栽培を行う前に生活していた場所に通じるのが,こういった環境なのかもしれません.このような環境はそう多くはなく,したがってナツアカネも,繁殖行動の観察が少し難しいトンボになりました.

写真10.9月14日.池のまわりを取り囲む堤に生える草地の上で,産卵をするナツアカネのペア.背景が水面であることが分かるであろう.
写真11.9月14日.きちんと卵を落下させ,産卵をしていることがはっきりと分かる.
写真12.9月23日.湿地横の草地で連結産卵をするナツアカネのペア.
写真13.9月23日.あちこち移動しながら産卵を続けるナツアカネのペア.
写真14.9月23日.湿地横に広がっている草地で産卵する.ここはノシメトンボが産卵するような場所でもある.
写真15.9月11日.連結産卵していたものが単独に移行したメスが湿地で単独産卵している(左).放卵時に腹部先端を軽く振っている(右).

 以上紹介しましたように,ナツアカネは草の上で産卵する性質があります.でもこの性質は,時にナツアカネの判断を誤らせるようです.湿った芝生の上で産卵しているのを見たことがあるのです.陸上に産卵するトンボは,そこにやがて水がやって来るのを認識しているはずですが,たまにこういう失敗もあるようです.

写真16.10月21日.公園の芝生の上で産卵活動を行っているナツアカネのペア.
写真17.10月21日.オスは芝生上に飛んできたメスを捕まえて交尾をした(左上).その後,芝生の上での産卵を開始した.

 ナツアカネはこのように9月中旬に産卵する姿がたくさん見られます.しかしその後も産卵は続きます.10月に入っても,上の芝生上での産卵のように,あちこちで産卵が見られます.さらに11月に入ってからも,数は減るもののまだ産卵は続きます.この時期になると,水田では稲刈りはとうに終わっており,その後転作がないところではひこばえが出ています.稲が実る水田とは違いますが,ひこばえのある水田で産卵する姿も,水田を生息場所とするナツアカネの生態として興味深いものがあります.

写真18.11月20日.11月下旬,転作が行われない休耕期の水田.ひこばえが生えている.こういったところにもナツアカネは産卵にやって来る.
写真19.11月20日.卵が落下するところが見えるので,きちんと卵を産んでいることが分かる.ナツアカネはいっときに2粒卵が落ちることがよくある(左).
写真20.11月20日.快晴の昼下がり,13:36,気温が最も高くなる時間帯に,ひこばえの間で産卵をする老熟ナツアカネのペア.

 この11月20日の産卵(写真18−20)はかなり遅く珍しいもので,産卵としてはもう最後の方のものと思われます.11月下旬以降,他の多くのアカトンボと同じように,後生殖期,つまり老後を2,3週間過ごして,12月中旬ぐらいには姿を消していきます.私の記録としては12月5日というのがもっとも遅いものです.

写真21.11月25日.日向で憩うナツアカネのオス(左)とメス(右).
写真22.12月5日.私のもっとも遅い記録.ナツアカネのメス.