トンボ歳時記総集編 6月−8月
クロイトトンボたちの活動期
写真1.抽水植物,沈水植物,浮葉植物の繁茂した,まわりに樹林のない平地の皿池.
クロイトトンボ属の各イトトンボは春から初秋にかけて出現するトンボです.もっとも,最近は暦上初秋になる9月はまだ夏の真っ盛りといった感じですので,これらは春から夏にかけてのトンボと言っていいと思います.兵庫県南部のため池調査をしたとき,オオイトトンボを除く3種が見つかりました.調査は定量的に行っていますのでそれらの消長が分かります(右のグラフ).これを見ると,いずれも5月下旬に成虫出現のピークが見られます.クロイトトンボについては9月にもう一度小さなピークが見られます.
クロイトトンボ属4種は,兵庫県では一年二化している可能性が高いと考えられます.私の定量調査は8−9月上旬の調査が空白状態なので,近畿地方全体の報告をみてみますと,4種とも夏の終わりから秋口にかけても小さなピークがあるように見えます*1.さらに私の観察では,7月から9月にかけての成虫は,5月頃のものに比べてやや小型になっています.多くのトンボで二化目はやや小型個体になる傾向があり,これは二化していることを示唆する結果です.
以上をまとめますと,まず終齢またはその近くの齢で越冬した幼虫たちが,春にまとまって羽化し,第一のピークをつくると考えられます.そしてその子孫のうち早く産下された卵から成長した一部の出生群が,夏に羽化し,小さな第二のピークをつくると思われます.そうすればこの第二のピークが小さいことも説明できます.夏に羽化できなかった出生群は,夏の世代の子孫とともに,幼虫で越冬に入るのでしょう.
*1:関西トンボ談話会,1984.近畿のトンボ.
写真2.左:5月4日,中:5月6日,右:5月4日.羽化するクロイトトンボたち..
ではまず,クロイトトンボから見ていきましょう.クロイトトンボは,どちらかといえば,樹林が隣接した池に多く見られます.すでに紹介したように,4月の下旬には羽化が始まり,5月上旬まで,羽化のピークが続きます.その羽化群が5中旬頃に繁殖活動を迎えます.これが成虫出現の第一のピークになります.
写真3.左:5月6日,右:4月24日.羽化した後,池のまわりに広がる草地で休む未熟なクロイトトンボのオス(左)とメス(右).
写真4.左:5月15日.春の池の畔,芽生え始めた水草を横目に交尾をするカップル.メスは青色.
写真5.5月15日.上の写真と同じ日,緑色型のメスが,オスと移精行動,そして交尾に至っている.
写真6.左:5月20日.川で産卵するクロイトトンボのペア.
クロイトトンボは潜水産卵も行います.あまり積極的に行っているようには見えませんが,水面下にしか産卵基質がないときなどに見られる気がします.これも5月の第一のピークのころによく見られる行動です.オス・メスがタンデムになったままで,メスが後ずさりしながら産卵を続け,オスを引き込むようにして潜水状態になります.
潜水産卵するイトトンボは,翅が水に取られないように,潜水時に水に接する後翅の外面(下面)に気泡を溜めるしくみがあるようです.しかし他の面にはそれがないようで,水面に落ちた不均翅亜目のトンボの翅が水面に貼り付くように,クロイトトンボの翅の内面(上面)が水面に貼り付いてしまって動けなくなった状態のオスを観察しました.
写真7.5月18日.タンデム状態で潜水産卵をするクロイトトンボのペア.メスがオスを引きずり込む.
写真8.6月13日.潜水産卵できるクロイトトンボが,翅を水面に取られてもがいている.メスに助けられた.
クロイトトンボはさらに夏になっても活動を続けています.5月のようにたくさんいるというわけではありませんが,あちこちの池で,タンデムになっていたり,産卵をしていたり,熱心に繁殖活動をやっています.あまりに普通種なので,クロイトトンボだけをねらって観察するという機会がなく,色々なトンボの観察の待ち時間などに観察することがふつうになってしまっています.これはトンボ屋としてはいけませんね.
右のグラフは,採集活動をしっかりとやっていた1990年前後の神戸市内の採集記録です.5月から7月のピークに続いて,8月から9月にもう一つの少し小さいピークがあるように見えます.
クロイトトンボの消長図
写真9.8月2日.緑色のメスとの産卵活動.
写真10.7月30日.青色メスとの産卵.
写真11.左:7月7日,右上:6月10日,右下:7月23日.単独で潜水産卵をしようとしているメス(左)と,交尾態のペアたち(右).
クロイトトンボのオスは,夏の暑い日にも浮葉植物の上に止まって,メスを待っています.水面ギリギリのところをビュンビュン飛び回っているのをよく見かけます.また水面上でホバリングしてじっとしていることもあります.一方で,繁殖活動はどちらかというと日陰で多く見られます.いわゆるグループ産卵をしていることもあります.
写真12.7月31日.暑い夏は,日陰の池や池の陰になったところで産卵活動をしていることが多い.
こうやって夏を過ごし,やがて姿を消していきます.9月になると観察例が少なくなります.私は,9月13日に,川で繁殖活動をしているクロイトトンボを観察したことがあります.もうメスの色も褪せていて,白っぽくなっていました.
写真13.左:9月13日,右:9月2日.まだ若々しい感じのするクロイトトンボのペア(左)と,浮葉植物に止まるオス(右).
写真14.9月13日.川で産卵するクロイトトンボのペア.おそらく緑メスだが,色が褪せて黄色っぽくなっている.
クロイトトンボとよく一緒に生息しているのがオオイトトンボです.ただ兵庫県では,オオイトトンボが減少しているようで,クロイトトンボしか見られない池がほとんどになっています.1990年代では,山間のきれいな池を訪れれば,たいがいその姿を見ることができました.現在は非常に限られた池でした見ることができません.以前
神戸市内をオオイトトンボを求めて探し回りましたが,見つけることができなかったことがあります.2019年11月に行われた日本トンボ学会でもオオイトトンボの減少が報告され,今度改訂されるレッドデータブックに掲載されることになるかもしれません.
写真15.左:1990年7月13日.右:2006年9月2日.かつての神戸市内での生息地にて.春から秋口までオオイトトンボが元気に飛ぶのが見られた.
さて,そんなオオイトトンボですが,たくさんいる生息地では4月の下旬には羽化を終えて,繁殖活動をしています.その後,特に数の減少を感じることもなく活動を続け,夏を迎える感じです.兵庫県南部では二化しているようで,その後,9月に入るまで観察を続けることができます.8月に入ったころの個体は,やや小さく感じられます.下の一連の写真は,すべて同じ生息場所で撮ったもので,4月からずっと繁殖活動をしていることが分かります.
またクロイトトンボと同じくオオイトトンボもよく潜水産卵を行います.やはりメスが後ずさりしてオスを引き込むように潜水します.
写真16.左上:4月29日,左下・右上:5月26日,右下:5月10日.4月から5月にかけて活動するオオイトトンボたち.
写真17.6月7日.連結植物内産卵をするオオイトトンボ.6月に活動するオオイトトンボ.
写真18.6月23日.潜水産卵を始めているペア(左)と完全に潜ってしまったペア(右).6月に活動するオオイトトンボ.
写真19.左:7月13日,右:7月17日.オオイトトンボはほとんどの場合連結産卵をしているが,珍しく単独産卵をしていた(左).
7月頃までは個体数も多く,繁殖活動もふつうに見ることができます.しかし8月に入ると,個体数の減少を感じるようになります.最近の観察地が兵庫県北部のせいかもしれませんが,9月の早い時期に姿を消してしまうように思えます.私の一番遅い記録は,神戸市内のもので,10月1日です.
写真20.左上:8月19日,左下:8月12日,右上:8月25日,右下:8月10日.すべて違う生息地で撮影.8月のオオイトトンボ.体型がやや小さい.
写真21.左:9月2日,右:9月9日.9月に入ると,個体数は大きく減少し,あまり姿を見ることができなくなる.
次はセスジイトトンボです.セスジイトトンボは,樹林が隣接した池に棲むクロイトトンボやオオイトトンボと違って,平地の開けた池の生活者です.平地を流れる河川や平地の開けた明るい池に生息しています.1990年代にはどこにでもいたような気がしていますが,現在見つけるのが難しくなっています.
2018年8月5日にちょっと気合いを入れてセスジイトトンボを探したことがあります.しかしわずか1頭しか見つかりませんでした.このときは直前に降り続いた豪雨のせいかと思ったのですが,2019年の日本トンボ学会でもセスジイトトンボが減ったという報告があって,兵庫県でも激減しているのかもしれません.普通種ということで本格的な観察を後回しにしていたこともあり,意外と手元の写真記録がありません.
右のグラフのように,やはり9月頃に二つ目のピークがあるように見えます.
写真22.左:5月30日,右:日付不詳.かつて神戸市内でもふつうに見られたセスジイトトンボ(左).右はオオフサモの沈水部分に産卵するペア.いずれも河川.
セスジイトトンボは,非常に大きな河川の下流域や琵琶湖のような大湖などに数多く見つかることがあり,水量の多い水域でも生活できる一方,アオハダトンボやグンバイトンボが飛ぶような,いわゆる河川中流域にも姿を現します.池では,比較的大きく,沈水植生の発達したところに見られることが多いようです.兵庫県屈指の大河川下流域の河畔林にたくさんのセスジイトトンボが潜り込んでいたのに出会ったことがあります(写真24,25).その周辺を歩いてみても,川はコンクリート護岸され,水生植物も貧弱なのにどうしてここにいるのだろうと思わず考え込んでしまいました.琵琶湖では,流れ藻を利用して繁殖活動を行っているのを観察したことがあります.
こういった平野に発達する水域は,ヒトの生活する領域に重なることが多く,セスジイトトンボを見かけることが少なくなったのはそんなことが原因しているのかもしれません.未熟な成虫は,川の畔の草地や河畔林の中に潜り込んで生活しており,成熟した成虫は,池や川の畔で交尾を行って,川や池に入って産卵活動を行います.
写真23.左・右上:5月30日,右下:5月10日.未熟な個体(右下)や,繁殖活動しない個体は,池周辺の草の中で暮らしている.
写真24.6月17日.大河川の河原に広がる河畔林の中で休むセスジイトトンボのオス.河原の石がゴロゴロしている.
写真25.6月17日.写真24の河畔林の中には,いろいろな成熟段階のメスがいる.眼後紋や前胸の色彩が,水色・薄緑から橙色へと変化している.
5から6月にかけての繁殖活動は,主に日中に行われます.お昼頃生息地の川や池を訪れると,交尾していたり,産卵しているペアに出会うことができます.セスジイトトンボは,多くが普通の植物内産卵をしていますが,ときどき潜水産卵が見られます.
写真26.5月30日.移精行動をしているペア.タンデム−移精行動−交尾という順序で行われる.
写真27.5月30日.河川の流水で産卵するペア.
写真28.6月9日.潜水産卵を始めたメスがオスを引きずり込もうとし(左),とうとう完全に潜水産卵になった(右).
写真29.6月29日.産卵場所にはペアが集まってくる.
写真30.6月2日.こちらは池周辺の草地.オスはメスを捕まえ,交尾をしてから,タンデム態で産卵に向かう.河川での行動と同じである.
セスジイトトンボは,盛夏や秋口になってもその姿が見られます.おそらく二化していると思われます.野外で観察しているとあまりはっきりとした二山のピークを感じることが少なく,だらだらと繁殖活動が続いているように見えます.
写真31.右:7月4日,左:8月27日.池周辺の草の中で生活するメス.この時期にも若い個体(左上)がいて羽化が行われていることが分かる.
写真32.9月11日.おそらく二化目と思われる個体による秋の繁殖活動.
最後はムスジイトトンボです.ムスジイトトンボは,このクロイトトンボ属4種の中では,おそらくもっとも南方に分布域が広がっているトンボです.南大東島でも見かけたことがありました.南方系のトンボは,本土では海岸に近いところに分布する傾向が見られます.海岸近くは冬に海水温の影響を受けるのでしょうか,あまり気温が下がりきらないためと考えられます.兵庫県でも,どちらかといえば海岸に近いところでよく見つかっていて,港湾域に建造されている公園の池などによく姿を現します.しかし最近は内陸部での発見が多くなっているように感じます.近年の気温上昇のせいかもしれません.
ところで,2000年頃にものすごい数が出た池に遭遇したことがあります.そのときはたくさんの個体が連結植物内産卵をしていました.しかし,トンボ歳時記を始めて以降は,セスジイトトンボと同じように大量に出現する池に当たることはおろか,ムスジイトトンボに出会うことさえ難しくなってしまいました.2008年に始めたトンボ歳時記に掲載した兵庫県内の観察例は最近まで数回だけでした.
ムスジイトトンボはセスジイトトンボに混じって生活しているのをよく見かけます.青の色あいが微妙に違うので,慣れたら見ただけで区別できるようになります.
No.040:ムスジイトトンボ
Paracercion melanotum
ムスジイトトンボの消長図
写真33.5月30日.ムスジイトトンボの交尾.海岸近くではなく,中国自動車道から近い内陸部の小さな池である.
写真34.左上:6月9日,左下:7月31日,右:10月29日.ときどき,思いがけないところで出会う,単独で止まっているムスジイトトンボ.右は兵庫県北部.
写真35.9月2日.若いムスジイトトンボのメス.胸部がまだ緑色をしており腹部にもコバルト色が出ていない.若い個体であることが分かる.
写真36.9月18日.成熟したムスジイトトンボのメス.胸部が黄褐色になり腹部にコバルト色が出ている.成熟した個体であることが分かる.
写真37.9月23日.成熟したオス(左上)とメス(右),および羽化直後のオス(左下).この時期に未熟個体が出ていることは二化していることをうかがわせる.
以上のようにわずかな遭遇記録しかなかったムスジイトトンボですが,2022年にたくさん発生している池を知り,初めて県内でその生態が観察できました.
5月下旬から6月上旬にかけて観察を行いました.午前9時ごろにはもうオスたちが水面に出て活動を始めていました.30mほど歩いてカウントしてみますと60頭ぐらいいましたから,池全体では軽く三桁はいたでしょう.
写真33.6月2日.水面に出て活動しているオス.
写真34.6月2日.眼後紋が細く,複眼の下部が水色をしている,肩縫線黒条内に淡色条が顕著に発達しない,後頭条がないなど,セスジイトトンボと異なる.
この時間帯からすでに交尾しているペアが散見されましたが,午前中に産卵行動は観察できませんでした.その後もずっと,交尾態ばかりが見つかり,産卵行動をとるペアが見つかりません.一方交尾ペアはその後もたくさん見つかり,岸から離れた水面上だけでなく,水際の草地でも行われていました.
写真35.6月2日.メスが頭胸部が食べられたオスをくっつけて飛んでいた.タンデムになっている個体や交尾している個体が見つかるが,産卵が見られない.
写真36.6月3日.菱の上に止まって行われる典型的な交尾状態.
写真37.6月12日.交尾は水面上だけでなく,岸近くの植生内でも行われる.
交尾態ばかり見られるのに対して,あまりに産卵が見られないので,一度交尾をその終了まで見守っていました.すると交尾を終えたカップルは,ものすごいスピードで沖の方に向かって飛び,視界から消えました.観察を続けていると,向こうの方で水面にカップルが止まったかと思うと,その姿が水中に消えていきました.産卵は交尾が行われた近くの浅いところで行われるのではなく,沖の方の深いところで潜水産卵を行っているということが分かりました.
写真38.6月12日.沖の方でヒルムシロの葉に止まり,その葉柄に沿って後退しながら潜水していくカップル.
普通はこの場所までは深くて入っていけないのですが,観察した日にたまたま水位が下がっていて,潜水産卵するカップルの近くまで行ける状況でした.こういう機会は滅多にありません.観察していると,カップルは,止まってはメスが腹部先端で水中の植物体をしばらく探り,また飛んでは同じことを繰り返す,といった行動を見せました.また途中でメスが水面に浮かんで,だだをこねているようにオスの動きに逆らったりします.オスがいくら羽ばたいても頑として動きません.ただこれは私が近くにいて追いかけ回した影響を受けた行動かもしれないとも思っています.遠くで潜るときはもっと決断が早いように見えます.しかしやがてこのペアも潜水を始めました.
写真39.6月3日.メスは腹部先端で植物体を探るような動きを見せるが産卵しているようには見えない.かと思うとメスは水面に浮かびオスの動きに逆らう.
写真40.6月3日.またメスがだだをこねているのかと思ったら,本気で潜水し始めた.オスは葉柄の束にしがみついて潜水を阻止しようとしている.
写真41.6月3日.オスは強引に葉柄の束から引き離され,ついに潜水を余儀なくされた.
写真42.6月3日.ついにペア全体が水中に没したが,オスはすぐにメスを放して水面に出てきた.メスは深く潜水.このオス,潜水が嫌いだったのかも....
写真解説中,メスがだだをこねていると書きましたが,潜水の嫌いなオスが,潜水したいメスに逆らっていたというのが正解かもしれません.
メスはかなり深く潜っています.多分50cm以上は潜っているでしょう.このペアではオスが離れましたが,遠くで潜水しているペアでそういったことは観察できませんでした.多くの場合,タンデムで潜水産卵しているのでしょう.それにしてもこのように深く潜水していると,普通に探していたのでは,産卵にお目にかかれないのは当然です.
ところで,関東のある県では,クロイトトンボですら数を減らし観察困難になっているという報告が,2019年の日本トンボ学会でありました.兵庫県でも,クロイトトンボはまだ健在といえるものの,オオイトトンボ,ムスジイトトンボ,セスジイトトンボが観察困難になりつつあります.このうち,平地の池に生息するムスジイトトンボとセスジイトトンボについては,多くの池に見られる沈水植物の消滅が大きく響いているように思えます.写真1の池は非常に植生が豊かで,セスジイトトンボやムスジイトトンボが群れ飛んでいたのですが,この池にも2008年にヌートリアの姿が確認され(写真43左),それ以降広く開水面が広がるだけの池になりました.
また,多くの池でアカミミガメ(写真43右)が急増し,そのような池でも沈水植生が破壊されているように感じます.沈水植物は,セスジイトトンボやムスジイトトンボにとっては重要な産卵基質であり,幼虫のすみかでもあります.特に潜水産卵を中心に行っているムスジイトトンボにとっては沈水植物は必須の産卵基質といえるでしょう.これに加え農薬などの薬剤は,低い位置につくられる平地池に流入しやすくなります.こういった複合要因により,セスジイトトンボとムスジイトトンボが急減しているのかもしれません.
写真43.2008年写真1の池に現れたヌートリア(左)と,餌をもらおうと人が岸近くを通るとついてくるアカミミガメ(右).