トンボ歳時記総集編 7月−8月
夏は涼しいところに限る
写真1.樹林に囲まれた河川.
ヤンマと名がつくトンボは,トンボ中でも大型で美しいものが多く,いわばトンボのスター的存在かもしれません.しかし,ギンヤンマやオニヤンマなどを除くと,意外とうす暗いところで目立たずひっそりと暮らしているものが多いのです.コシボソヤンマはそういった陰鬱な場所で生活する代表でしょう.樹林におおわれた河川に生息し,開けた明るいところへ出て活動するということは一生を通じてほとんどありません.
さて,そんなコシボソヤンマですが,成虫は6月頃から羽化してきます.倒垂型をするヤンマの羽化は夜間に行われることが多く,かつ非常に時間がかかります.野外観察をする気力はとてもありませんので,例によって自宅羽化の観察をしました.コシボソヤンマの幼虫は非常に神経質で,人の気配を感じると,いつまでも羽化が始まらず,結局脱皮せずに死んでしまうことがあります.そんなコシボソヤンマの羽化に,7月3日の夜から4日の早朝にかけて,一度だけ成功したことがあります.しかも,幼虫のよじ登りから翅を開くまで,ほぼ完全に観察ができました.
羽化に先立つ数日前から,羽化の支持用の枝につかまって,水面から上半身を出して気管呼吸を初めている状態が続いていました.そして羽化の前日,枝を少し登って,水面から5cmくらいのところに止まっているのを見つけました.いよいよ羽化が始まる前兆です.飼育容器を刺激しないように放置し,羽化を待ちました.
No.059:コシボソヤンマ
Boyeria maclachlani
コシボソヤンマの消長図
写真2.7月3日−4日.開裂から腹部の抜き取りまで.
7月3日,幼虫が羽化のために用意した支持枝をよじ登り始めたのは21:00頃でした.そして枝先に定位しました.しかし定位してからはほとんど動きがありません.3時間以上その状態が続きました.体が乾燥すると羽化失敗をすることが多いという話を聞いたことがあるので,霧吹きで水をかけたりして待ちました.
日付が変わった0:08,幼虫が腹部を大きく前後に振りました.これは,羽化のときによく見られる動きで,私は翅が伸びるあたりに障害物がないかどうかを確かめる動きではないかと思っています(右欄外写真).そしてすぐに,それまで枝にツメを引っかけるように止まっていた幼虫は,脚で枝を抱きかかえるようにしがみつきました.にわかに腹部がふくらんだり伸びたりする動きが見られたかと思うと,0:53に背中が割れて成虫の胸部と頭部が出てきました.
この後,休止期が26分間続き,体を起こしました.腹部を抜いたらまずは翅の伸長です.重力にしたがって,全体がほぼ一様に伸びていきます.翅の色に透明感が出てきたころ次は腹部が伸長していきます.太かった腹部が次第に細くなり,ほぼ成虫の姿ができあがったころ,開翅します.脱皮が始まってから開翅するまで4時間ほどかかりました.開裂から腹部が伸びるまでは1時間半ほどですが,そこからが長かったです.
幼虫が腹部を振る行動
写真3.7月3日−4日.翅の伸長から翅を開くまで.
羽化した成虫は,樹林内で生活しているようです.一度だけ河畔林の中に止まっている若いオス・メスを観察したことがあります.うす暗い林内を少しずつ移動しながら活動していました.
写真4.7月17日.河畔林の中で暮らす若いコシボソヤンマのオス(左)とメス(右).
川に戻ってきた成虫の姿を見るのは,7月末から8月に入ってからのことが多いようです.オスは,真昼でも木々が川に覆い被さるような場所で,陰になった岸近くの水面を,岸に沿って低く飛んでメスを探しています.ときどき林内の木に止まって休息しているオスを見ることがあります.オスは,メスが産卵しているすぐそばを飛ぶこともよくありますが,今までオスがメスを見つけて捕捉した場面に出会っていません.本当にすぐ横,50cm−1mくらいのところを飛んでいても見つけられないのです.このオスの飛翔は本当に探雌飛翔なのかと疑いたくなります.
写真5.8月21日.林内で休息している成熟オス.名の通り腰の部分が細くくびれている.
写真6.左:8月16日,右:8月21日.水面上低いところを往復して探雌飛翔するコシボソヤンマのオス.
写真7.8月16日.探雌飛翔するオス.
メスはふつう午後に産卵にやってきます.午前9時頃に産卵しているのを見たこともありますので,必ずしも午後というわけではないようです.川に転がる朽ち木,それも水がかかっているようなところにあって,たっぷりと水分を含んだ木を好んで産卵をします.また流れに洗われている木の根に産卵していることもあります.産卵は相当に長く続くようで,2時間は軽く越えてしまいます.私は観察したことがありませんが,日が暮れても産卵していることがあるそうです.
写真8.8月18日 14:25頃.水しぶきを浴びながら水に濡れた転がった丸太に産卵するコシボソヤンマのメス.
写真9.8月18日 14:55頃.水に濡れて柔らかいなど,産卵基質が好適な場合,メスが複数集まって産卵していることがある.
写真10.8月27日 14:55頃.流れに倒れ込んだ水に濡れた木の枝に産卵するメス.腹部を水に浸けて産卵することも多い.
写真11.8月14日 16:45頃.流れる水の輝きがストロボ光で反射している.たっぷり水を含んだ木材に産卵管を突き立てているのが分かる.
写真12.8月14日.上下2枚の写真を撮影した環境(左).木材の先のヌルヌルがいっぱいついたところで産卵するメス.
写真13.8月14日 16:45頃.砂防ダムの水の出口を塞いでいる木材に産卵するメス.木材の下側に入って,天地逆さまで産卵している.落ちる水滴が見える.
写真14.8月20日.流れに浸かっている木の根に産卵するメス(右)と,かなり深く水中に体を沈めて産卵するメス(左).
産卵に夢中になっているメスは,ストロボを至近距離で焚いてもびくともしません.なかなか神経のすわったトンボです.しかし,あまりにもレンズを近づけると,鬱陶しく感じるのか,産卵を止めて,すぐ上の木に飛んでいって,止まったりします.しかし,20分も待つと,また降りてきて産卵を再開します.この性質を知ってからは,飛び立ってもあまり焦らなくなりました.
写真15.8月18日.あまりに近くに寄って撮影したので,嫌がって,いったん頭上の木の枝に静止して様子を見ているメス.
私は,コシボソヤンマは川の上流域でよく観察しています.しかし幼虫をすくっていると,アオハダトンボがいるような川の中流域でも,コシボソヤンマのヤゴがよく採れます.神戸市の1960年代の記録を見ると,平地を流れる川で採れている記録が結構あります.もともと,河川の上流から中流にかけて生息していたヤンマなのでしょう.開発によって平地の川が明るくなって,姿を消したのかもしれません.
黄昏飛翔する個体はあまり見かけませんが,ときどき夕方高所を飛行する姿を見ることがあります.
こうやって短い夏を過ごしたコシボソヤンマは,9月に入ると個体数が少なくなってきます.私のもっとも遅い記録は10月8日のものです.
写真16.左:8月18日,右:10月8日.車に当たり事故死したメス.山のドライブウェイで(左).ミルンヤンマを観察に行ったときに短時間訪れたメス(右).