トンボ歳時記総集編 5月

源流域の忍者ヒメクロサナエ
写真1.林床を流れる源流域で,木漏れ日の中,苔むす石の上に広がる草たち.

 ヒメクロサナエは,クロサナエとならんで,成虫がなかなか見られないトンボです.流れの畔に降りてくるのは短時間で,すぐに樹上へ上がってしまいます.流れの上を飛んだりもしますが,かなり高速で飛ぶため,ほとんど正体が分かりません.勘で,多分ヒメクロサナエだ,と判断するしかありません.生息個体数の多いところでは,午前中を中心に,林床の木漏れ日の射すところへ,たくさんのオスが降りてきて止まっているのが観察できます.「忍者」と形容したのは,じっくり観察していると,音も立てずに樹上から降りてきて,気がつかぬ間にすぐ横に止まっていたりするからです.
 ヒメクロサナエは,兵庫県の高標高地では,おそらく5月に入ってから羽化します.羽化そのものを観察したことはありませんが,羽化殻や,羽化直前の幼虫を,5月に入ってから見ることによります.幼虫行動の面白い例として,水から出て石の上にじっとしている幼虫が,羽化することなくまた水の中に戻っていくのを見たことがあります.日向で体を温めていたのでしょうか,この行動の意味はちょっと不明です.

写真2.幼虫:5月7日,羽化殻:5月21日,テネラルな成虫:5月29日.幼虫と羽化殻は同じ高標高地の場所.5月に入ってから羽化している.
写真3.幼虫:4月22日,羽化直後の成虫:5月21日.幼虫が石の上に止まっていたが,やがて水の中に帰って行った.いずれも同じ場所.

 私の観察地では,5月の下旬に入るころから繁殖活動が盛んになります.オスは,樹冠部の葉に止まったり移動したりしながら,時に流れの畔に降りてきます.生息地の流れの上にやや低い広葉樹があれば,そこでじっくりと観察してみるといいでしょう.うまくいけば,葉の上に止まっているヒメクロサナエを見ることができます.

写真4.右下:6月14日,その他:6月4日.樹上生活をするヒメクロサナエ.右下はメスでその他はオスである.
写真5.5月31日,左上から2枚目:5月21日.5月31日の午前中,たくさんのオスが降りてきていた.

 産卵が始まる5月の20日前後に生息地を訪れ,流れに沿って歩いて行くと,突然川からメスが飛び出て来ました.これはおそらく産卵をしていたメスです.メスは,サナエトンボ科では珍しく,静止して腹端を水や湿気のある基質にあてがい,卵をジュルジュルと出していくという,静止接水産卵を行います.私がすぐ横を通ったので,驚いたメスが飛び立ったのでしょう.また,産卵が終わってから飛び立ったメスが,近くの植物の葉に止まったりすることもあります.こうやって飛び立ったメスをオスが見つけ,タンデムから交尾に至ることもあります.交尾は高い樹上で行われることが多いのですが,流れのすぐそばで隠れるようにして交尾を継続することもあります.

写真6.左:6月13日,右2枚:5月21日.流れを歩いているとメスが飛び立ち葉上に止まることがある(左).右は産卵が終わって葉上に止まったメス.
写真7.左:5月21日,右:5月29日.交尾態で樹上へ上がる前にいったん近くの葉の上に止まった(左),流れに垂れ下がるシダの下での交尾(右).

 産卵にやってくるメスは,樹上から降りてくると,まず流れの上を往ったり来たりして飛ぶことが多く,これは産卵に適切な場所をさがしているように見えます.産卵に適した場所というのは,小石や枯れ枝,落ち葉などがころがっていて,そのすき間をチョロチョロと水が流れているような場所です.これはと思う場所が見つかったら,その上で旋回してさらに確かめるような動きをします.ここと決めたら着地し,腹端をここぞと思う場所に押しつけます.その後腰を振って,さらに腹端を押しつけるような動作をすることがあります.気に入らなかったらすぐに飛んで,別の場所をさがします.かなり神経質に卵を置く場所を選んでいるようです.一方,降りてくるやいなや,さっと腹端を石の間に差しこんで,すぐに産卵を始めるメスもいます.このあたりの動作はビデオに記録しています.

写真8.5月21日.メスが,産卵に適していると思った場所の上を飛び(左),そこに着地し産卵を始めた(右).
写真9.5月21日.腹端を水に浸けて産卵しているメス(左)と,岩の間に差しこんで産卵するメス(右).
写真10.5月21日.苔むす石の間に入りこんで産卵するメス.腹端にピンク色の卵が見える.左上は産卵後撮影した卵.
写真11.左:5月28日,右:5月26日.私の長靴の足跡にできた泥面に産卵するメス(左).このメスも腹端から卵が出てくるのが見える(右).

 ヒメクロサナエの没姿時期を調べたことがありませんので,いつころまで活動しているかは分かりません.住んでいるところがだいたい標高の高いところなので,場所によっても違うと思われます.六甲山の生息地はかなり標高が高く,5月の下旬に羽化し6月に成虫をよく見かけます.活動の中心は6月に入ってからで,その後6月の末くらいまで活動しているのではないかと思われます.写真に多く撮っている観察地は,5月の下旬から6月の初めくらいが産卵の最盛期のようです.このトンボの活動期ををどうするか迷いましたが,いちおう5月のトンボとしておきました.