トンボ歳時記総集編 5月

源流域の生きた化石
写真1.花がやや白っぽく葉桜で咲くヤマザクラ.

 春のトンボの中で,注目すべきトンボがムカシトンボです.ムカシトンボは生きた化石といわれ,中生代に栄えた古代トンボの一群(杉村ら,1999)といわれています.分類も特別で,トンボ目の下に,均翅亜目,不均翅亜目にならんで,ムカシトンボ亜目が設立されています.もっとも,当サイトでは現時点ではムカシトンボ亜目は,不均翅亜目のムカシトンボ科として扱っています*1.これに属するトンボは,中国,ヒマラヤ,日本と,世界に3種しかいません.
 この生きた化石は,春に源流域でひっそりと生活しています.兵庫県では,羽化は4月下旬にはすでに始まっているようです.羽化した未熟成虫は,樹林の明るい空間の高いところを飛んで摂食するので,なかなかその姿を見るのは難しいです.そのころに生息地を訪れても,羽化殻だけを見つけることが多いのです.ムカシトンボの幼虫は冬の終わりに水から出て,1か月ほどの陸上生活に移行します.生息する源流の両側に広がる林床の,湿った落ち葉の下などにもぐりこんで羽化まで暮らしています.飼育していても,水から出られるような装置を作ると,水から出て過ごすのが観察できます.これを観察したければ,1月くらいに終齢幼虫を採取し,飼育するといいでしょう.
 そういう生態なので,羽化殻は,流れからかなり離れたところで見つかることが多いです.生息地では,林床の木の根元付近や登山道の石段などにつかまった羽化殻をよく見ます.ムカシトンボの住む源流域は,たいがい標高の高いところにあるので,照葉樹林帯である兵庫県でもそのあたりは夏緑樹林帯になっていて,この時期葉が芽吹きはじめているものの,林床は明るくなっています.

写真2.左:3月--日,右:5月3日.飼育下のムカシトンボ幼虫(左).水から出ている.ムカシトンボの羽化(右:撮影N.O.氏使用許諾済).
写真3.5月7日.幼虫の生息する流(左側)れから登山道を挟んだ山の斜面(右側)に生えた樹木の根際に付いた羽化殻.
写真4.左・中上:4月27日,右・中下:5月8日.いろいろなところに付着しているムカシトンボの羽化殻.岩に付いているのは登山道の岩.左は林床.

 生息地で成虫の姿が目につき始めるのは,5月に入ってからです.朝のうちは,道路の上3,4mのところを往復飛翔したり,地面すれすれのところを飛んだりして,摂食飛翔をしています.ムカシトンボという名からはあまり連想できないほど,高速に飛びますので,摂食飛翔をしているムカシトンボを撮影するのはほとんど無理です.そこでどうしても捕まえて撮影というふうに,易きに流れてしまいます.

写真5.左・右.中下:5月3日,中上:5月31日.中上以外道路上を摂食飛翔しているオスを捕まえて撮影したもの.中上は獲物をつかんだメス.

 兵庫県の標高の高い生息地では,5月中旬になると,ムカシトンボの繁殖活動の最盛期を迎えます.標高の低いところではゴールデンウィークあたりになるようですが,私はそのような生息地を知りませんので,はっきりとは言えません.摂食活動が終わると,オスが流れに沿って飛ぶようになります.朝早いうちは一方向に飛んで,帰ってこないことも多いです.しかし,お昼が近くなってくると,流れの上をたんねんに飛びながら,流畔の植物の中をのぞき込むように飛んだり,水が落ち込む淵の上で旋回するように飛んだりする行動が見られはじめます.オスは,産卵しているメスを探したり,産卵に入ってくるメスを見つけようと,懸命に活動しているようです.

写真6.左:5月24日,右:5月11日.産卵植物をたんねんに調べてメスを探すオス(左),源流の淵の上を旋回しながら飛ぶオス(右).
写真7.左上・右上下:5月14日,左下・右中:5月25日.流れの上をホバリングしながら飛び回るムカシトンボのオス.

 オスがしきりに探雌パトロールしているときにメスが産卵に入ってくると,オスはそれを見つけ,メスを捕捉して,タンデムになります.タンデムになったペアは,樹林の上の方に飛び去っていきます.しかし,これはむしろ数少ない例で,メスはオスに見つからないように,植物の間を縫うように飛んで,産卵植物にしがみつくようにペタッと止まります.オスに見つかるメスは割合少ないのです.さらに,オスの飛ぶ数が少なくなった正午過ぎに産卵に来るメスもいます.

写真8.左:5月24日,右:5月21日.産卵に入ってきたメスを捕まえてタンデムを形成しようとするオス(左).産卵のために飛ぶメス(右).

 ムカシトンボの産卵植物については,いろいろと報告されています.よく観察されるのはフキですが,それ以外にも,ジャゴケ,ウワバミソウなどに産卵しているのを見かけます.コケに産卵する場合は,草の中にもぐりこむようにして,産卵することがあります.いずれにしても,水分を多く含むやわらかい植物に産卵しているようです.しかし観察フィールドで見ていると,やわらかそうな植物でもまったく見向きもしないものもあったりします.私の観察フィールドでは,6種類ほどの植物に産卵するのを見ています.植物名は,調べたが分かりませんでした.

写真9.左:5月21日.右:5月18日.ウワバミソウに産卵しているメス(左)と,フキの一種の葉柄に産卵するメス(右).
写真10.5月25日.植物名は分からないが,かなり大きな植物に産卵をしている.
写真11.左:5月21日.右:5月16日.ジャゴケに産卵するメス(左)と,3枚の小葉を持つ植物(種名不明)に産卵するメス(右).
写真12.5月11日.岩にはりついたジャゴケに産卵するとき,写真のようにまわりの草の中にもぐりこんで産卵する.

 産卵はかなりの重労働のようで,出現末期の5月末ころには,産卵後,飛べずに下に落ちることがよくあります.疲労ということも考えられますが,源流域の水面近くはかなり気温が低いので,長時間の産卵によって体温が低下した影響かもしれません.その際,歩いて高いところへ上り,ウォーミングアップをするように翅を震わせてから飛び立ったり,落ちたところでさらに産卵行動を見せたりします.写真14のように,落ちてから飛べないため,本来の産卵基質ではない朽木に懸命に産卵しようとするのを観察したこともあります.この場合,多分産卵管が突き立たず,無駄な努力に終わると思われます.出現末期のメスは,灰色の複眼が黒く透き通ってきます.

写真13.6月4日.産卵シーズンの末期,水際のフキに産卵するメス(右).下から上に移動しながら産卵し,葉までたどり着いた.産卵痕が見える(左).
写真14.5月25日.産卵植物から落ちたメス.ムカシトンボはこのような朽木に産卵することはない.それでも必死に産卵を続けようとしている.

 兵庫県では,生き残りが6月の初めまで見られるものの,だいたい5月中には姿を消してしまいます.5月中旬を中心に,わずかの期間成虫が見られるだけです.幼虫で生活する期間は5−6年くらいといわれているので,こんなに長い期間の後わずか1か月あまりで成虫の時代を終わるトンボなのです.幼虫期間が長いということは,水が涸れることのない安定した水量がある源流域でなければ生息できず,また産卵植物が流畔に豊かに生えているような場所でないと繁殖活動が行えません.元来森林に囲まれた源流域は水量は安定していることが多いはずが,最近はあちこちの源流域で水が伏流しているのを見かけます.そういう意味で今後が心配なトンボです.