トンボ歳時記総集編 5月

春に現れる川の小型サナエたち
写真1.5月,ダビドサナエやクロサナエがいるような山地で咲くタニウツギ.

 春早くに出現する川の小型サナエといえば,いうまでもなく,ダビドサナエ属のトンボです.兵庫県に分布するダビドサナエ属は,ダビドサナエ,クロサナエ,ヒラサナエの3種です.ヒラサナエは日本の北部に分布するモイワサナエの亜種で,種のレベルでいえば,日本に分布するダビドサナエ属全種が兵庫県にいることになります.これらはいずれも4月の下旬から5月のはじめにかけて羽化し,春の間活動した後本格的な夏が来るまでには姿を消す,典型的な春季種である.
 この3種のうち,流程に沿っての生活範囲が最も広がっているのは,ダビドサナエです.大きな石がゴロゴロしている上流から,砂泥が堆積し緩やかに流れる中流域にまで,その姿が見られます.中流域に生活するダビドサナエは4月下旬に羽化し始めます.上流域では羽化を観察したことがありませんが,おそらく少し遅れて羽化してくるものと思われます.

写真2.4月29日.中流域でのダビドサナエの羽化.いろいろな角度から撮ってみた.矢印は肛門水.定位から羽化まで1時間30分ほどかかっている.

 羽化した成虫は,周辺の樹林に向かって飛び立ちます.その後,樹林の周辺や日当たりのよい草地に出て摂食活動を行い,成熟を待つことになります.このころに意外なところでダビドサナエの姿を見ることがあります.コサナエの観察中に突然紛れ込んできたのが写真3の右の個体です.そして5月上旬には成熟した成虫が川に出てきます.

写真3.左:4月20日,右:5月5日.中流域で処女飛行に飛び立った後のメス.林の中の池の畔で樹上に止まっている未熟なメス.
写真4.4月29日.生息地の川の横に広がる耕作前の水田で,カゲロウ?の一種を摂食している,未熟なメスのダビドサナエ.

 オスは,流れの中に顔を出している石の上などによく止まっています.河畔林のあるところによく集まっているようです.中流域では5月の中旬ころに数が多くなりますが,標高の高いところを流れる上流域では,5月下旬から6月上旬に数が多くなるようです.止まっているオスをおどろかせると,樹上へ飛んで逃げていきます.クロサナエに比べると川に降りてきている時間は長いようです.

写真5.左:5月12日,中:5月17日,右:5月16日.中流域のダビドサナエ.5月中旬には繁殖活動を行っている.
写真6.6月6日.標高の高い上流域で繁殖活動するオスたち.標高の高いところでは,活動時期が少し遅れる.

 成熟したメスは,あまり姿を見ることがありません.時折,生息地の草の葉の上などに止まっているのを見かけますが,通常は樹上生活をしているようで,産卵するときに樹木の上の方から舞うように降りてくるのを見ることが多いです.産卵場所は,流れの近くの岸で行われ,水面ではなく地面の上でホバリングしながら,卵を一粒ずつ落としていきます.

写真7.左:5月17日,右:6月1日.メスは岸辺の陸上で産卵をする(左).産卵の前後なのか,時折水辺の草の上にメスが止まっている(右).
写真8.5月17日.産卵をするダビドサナエのメス.

 さて,次はクロサナエです.クロサナエは,ダビドサナエに比べるとかなり上流域に偏った生活域を持っています.樹林が隣接した,比較的流れの速い上流に生活しています.しかしながら,クロサナエの成虫を見ることはかなり難しく,私も長い間目にすることがありませんでした.クロサナエは,オスもメスも樹上にいる時間が長くて,流れに降りてきて止まっているのはほんの短時間なのです.ですから運がよくないと出会うことができません.もし出会うことができたなら,その場所へ出かけ,朝から半日くらい頑張って待ってみるとよいかもしれません.再びオスが降りてきて止まるのを見ることができるかもしれません.さらに,オスはメスが来る場所をよく知っていて,そういったオスが降りてくるところへは,メスが産卵にやって来る可能性は十分にあります.
 兵庫県では,標高の高い上流域に見られることが多く,成熟した成虫が現れるのは5月の中旬くらいからです.兵庫県下では羽化をまだ観察したことがありませんので,羽化がいつ頃行われているかは推測するしかありませんが,おそらく4月下旬か5月上旬だと思われます.

写真9.5月22日.木漏れ日の射す林床を流れる源流域で,樹上から降りてきて短時間静止しているクロサナエのオス.
写真10.左上:5月23日,左中・左下:5月21日,右:5月22日.流れのさまざまな支持物に静止するクロサナエのオスたち.

 すでに言ったように,クロサナエのオスは,流れの畔で長時間止まって縄張り活動のようなことをやることはありません.何かの拍子に樹上から降りてくるといった感じです.数年間の観察から気づいたことは,メスの産卵の前後に降りてくることが結構多いということです.樹上でオスとメスがどういった行動をとっているのかはまったく分かりませんが,オスはメスの動きを追いかけている,または予測しているように感じます.オスが降りてきて静止する場所は,ほぼ間違いなくメスが産卵にやって来る場所そのものなのです.クロサナエは,樹木という垂直方向の広がり,そして流れとその畔という平面的広がり,この三次元的な広がりの中を自在に飛び回って繁殖活動しているトンボであると考えられます.同様のことは,同所的に生活している,ヒメクロサナエにも感じられます.

写真11.左:5月22日,右:5月21日.メスの産卵する場所と,オスが樹上から降りてきて静止する場所はほとんど同じである.

 私の観察地は標高が高いところで,ここでは5月中旬から6月中旬まで産卵が見られます.メスは,9時ころから15時ころまで,特に集中する時間帯を感じることなく,産卵にやって来ます.産卵方法は停止飛翔産卵です.卵は1個ずつ産卵弁から落ちます.産卵弁の出口で,卵が一列に順序よく並んで滑るように出てくるところが,写真に撮れました.放卵時に腹部先端を振るという動作は見られませんので,生殖口奥の膣や輸卵管の筋肉の動きによって卵が順次押し出され,放卵されるのでしょう.産卵は,水面上ではなく,流れの横の地面の上や,流れの中にある苔むした大きな石の上とか,水のない場所の上で行われます.

写真12.左:5月22日,右:5月31日.苔むす石の上で産卵するメス(右)と,流れの畔の地面の上で産卵するメス(左).
写真13.左・右下:5月22日,右中上:6月13日.苔むす石の上で産卵するメス.遅い個体は6月の中旬まで産卵するのが見られる.
写真14.5月23日.流れの畔の地面の上で産卵するメス.左上は,産卵弁から順序よく整列して出てくる卵.

 産卵中のメスが静止することはほとんどありませんが,ときどき静止して休息しているように見えるときがあります.対して,産卵が終わったときに,近くの草の葉の上に止まることはよくあります.

写真15.5月22日.右側は産卵が終わってから草に止まったメス.左側は産卵の途中で止まったメス.写真では分からないか...

 さて,最後のダビドサナエ属は,モイワサナエの地域亜種ヒラサナエです.兵庫県では,ヒラサナエは,緩やかな流れを伴う湿地のトンボです.流れがなく水が入れ替わらないような湿地には生息していないので,やはり流水性のトンボと言ってよいでしょう.新潟県で原名亜種のモイワサナエを見たときは,ふつうの川にダビドサナエのように石の上に止まっていました.兵庫県のヒラサナエについては,こういった環境には見られないようです.
 原名亜種であるモイワサナエが北方に分布する種のせいか,ヒラサナエは,兵庫県では,標高の高い場所にしか見られません.したがって,羽化も他のダビドサナエ属より少し遅く,5月に入ってからになります.ちょうどゴールデンウィークころに,湿地で羽化するヒラサナエが見られます.それ以前の観察としては,4月12日にはまだ流れの泥の中にうごめく幼虫を,4月30日には捕まえた幼虫を水中に戻したときそのまま陸上に這い上がってくるのを観察しました.ただこの日は悪天候でもあり,羽化はしませんでした.

写真16.左:4月12日.右:4月30日.流れの泥の中にうごめく幼虫(左)と,4月末,捕まえた幼虫を水中に逃がしたら,陸上に上がってきた(右).
写真17.5月5日.ヒラサナエの羽化過程.よく晴れた日,開裂から1時間あまりで羽化が完了した.
写真18.5月5日.湿地で羽化する,別のヒラサナエのメス.

 兵庫県のヒラサナエ個体群は孤立して分断化しているように見えます.生息地の小さな湿地は,その年々の気象条件によっては,水が極端に少なくなって個体数の減少を招くこともあるでしょう.実際,毎年の観察でも,個体数の多い年と少ない年があることは事実です.つまり過去にボトルネックを経験した可能性があり,個体群内の遺伝的多様性が低くなっていることが考えられます.その一つの示唆として,羽化時期,成熟の度合い,交尾時期の一斉性など,写真の個体群の行動や生活史の同調性が高いことが挙げられます.またここの個体群のヒラサナエの飛翔力はあまり強くないように見えます.これはひょっとしたら遺伝的多様性の低下による近交弱勢によるのかもしれません.
 さて,羽化が終わった成虫は,ヒラヒラと弱々しく飛んで,すぐ近くのオタカラコウなどの葉に止まります.飛び立ったときに開いていた翅が再び閉じることもよくあります.体が軟らかくて腹部が曲がったり,時にクモに捕らえられたりしているのを見ることもあります.いずれにしてもテネラルな個体は非常に弱々しい感じです.

写真19.5月5日.羽化直後の成虫.腹部が十分硬化していなくてやわらかかったり,翅を閉じていたりしている.右はクモに補食されるメス.
写真20.5月5日.上のテネラルな写真とは異なる年.未熟な個体は,淡色部が鮮やかな黄色をしていて美しい.
写真21.左:6月13日,右:5月24日.5月の下旬に入ると,しっかりと摂食をして,オスもメスも成熟し,かなりしっかりとした体つきになる.

 5月の中旬に入ると,成熟した個体が繁殖活動を開始します.オスとメスは同所的に生活しています.メスの交尾受容のサインがどのようになっているかは分かりませんが,交尾が見られたときには,あちこちで交尾している姿が観察でき,とても同調性が高いように感じます.写真22の交尾は,すべて同じ,2015年5月23日13:45から14:46の間に観察されたものです.産卵は,午後に,湿地の流れに生えているオタカラコウの陰に入りこんで,停止飛翔して行われます.

写真22.5月23日.13:35から14:46の間に観察された交尾ペア.交尾時間は長いので,これらの交尾はほぼ同時的に行われているといえる.
写真23.5月17日 14:19.オタカラコウの葉の下で見え隠れしながら産卵するヒラサナエのメス.

 ダビドサナエ属のサナエトンボは,いずれもだいたい6月中には姿が見られなくなります.これら3種のトンボは,それぞれ河川環境を分けて生活していますので,3種を観察するためには,ここで紹介したように,5月中旬以降に,それぞれの生活する水環境を訪れる必要があります.