トンボ歳時記総集編 6月

輝く青緑色の翅を持つカワトンボ
写真1.植生豊かな河川中流域.

 アオハダトンボは,兵庫県各地の川によって出現時期が大きく異なっています.兵庫県の西部で幼虫をすくうと,5月上旬には羽化間近な終齢幼虫が採れ,5月下旬には成熟した成虫が見られます.極端な例としては,4月28日に羽化を見ています(写真3左)し,5月20日には産卵をしているメスを観察しました.兵庫県の西部だけ見ていると,春季種として活動するトンボのように思えてしまいます.一方,兵庫県の東部や北部の生息地では,5月中に羽化してはいるものの,6月中旬に羽化を観察したこともあります(写真3中・右).このように出現時期にかなり幅はありますが,繁殖活動がもっとも盛んに見られるのは,6月の上中旬ころです.こういう理由で,初夏のトンボと分類しました.

写真2.左:5月4日,右:5月5日.これらは異なる川での撮影.左は植生の根際をすくったもの,右は流れの中を動く幼虫.いずれもアオハダトンボ.
写真3.左:4月28日,中・右:6月13日.異なる河川.左右は羽化直後の個体.羽化時期は生息する河川によって,1か月半も差がある.
写真4.5月20日.この時点で完全に成熟したオスと,すでに産卵を始めているメス.兵庫県西部.

 羽化した成虫は,あまり川から離れることがなく,河原のヨシ原などで過ごしています.オスもメスも同じところで生活し,成熟していきます.成熟すると繁殖活動が始まるのですが,同所的に生活している場合,メスが生殖可能な状態かどうかオスは見分けねばなりません.というのは,多くのトンボでは,産卵意欲のない成熟メスは水域から離れて生活していますので,水域にやって来ることがすなわち生殖可能であることになり,オスは水域にやって来たメスを捕捉し交尾すればよいということになるからです.
 そこでアオハダトンボには,我々でもはっきりと分かるような,近づくオスに対するメスの交尾拒否姿勢が見られます.交尾拒否をするときは,翅を少し開き気味にし,腹部を斜め上方に突き立てます.オスはそんなメスの後方でホバリングしてメスに近づこうとしますが,どういうわけかメスにつかみかかるまでには至りません.こういった観察から,この姿勢はオスによるタンデム形成行動を引き起こさない信号刺激のように見えますが,証明はされていません.

写真5.6月13日.メスによる交尾拒否姿勢.翅を開き腹部を斜め上に突き立てて腹部先端を後ろに向ける.

 この交尾拒否姿勢は,生殖可能状態にあるメスにも見られます.オスは交尾を許容してもらうためにしきりにメスに対してディスプレイ行動をとりますが,メスがその気になっていないときにも,同様の交尾拒否姿勢をとります.しつこくオスがディスプレイを続けると,やがてメスが交尾を許容することがありますので,このメスは生殖可能状態であることが分かります.

写真6.5月30日.オスがしきりにメスに対してディスプレイをしている途中に見られるメスの交尾拒否姿勢.この状態では交尾に至らない.

 オスとメスはこんなやりとりをしながら,5月下旬から7月にかけて,川で生活しています.オスの方は,産卵基質であるツルヨシの茎や葉が流れに洗われているところや,エビモやコカナダモなどの沈水植物が水面に浮き上がっているところなどに縄張りを形成して,メスを待ちます.他のオスが縄張りに入ってくると,激しい闘争が始まります.闘争は縄張りを大きく離れても,互いにもつれ合うようにして継続されます.

写真7.6月6日.オスの縄張り空間.手前のコカナダモが繁茂している部分が資源(産卵基質)で,それを防衛するオスが左上に止まっている.
写真8.5月30日.縄張りを見まもるオスたち.オスは石の上や葉に止まって縄張りを監視する.
写真9.6月2日.縄張りに入ってきたオスに対して闘争を繰り広げる縄張りオス.
写真10.6月2日.闘争は縄張りを離れ,川の中央部でかなりの時間繰り広げられる.

 オスの縄張りにメスが近づいてくると,オスの動きが活発になります.そのメスに交尾受容可能性があるのか,またそれがある場合に自分に応じてくれるのか,おそらくそういったことを確かめるオス・メスの行動の連鎖が見られるようになります.この行動は,観察する場所の植物などの配置などによって多少の変異はあるようですが,だいたい決まっています.これを一般に求愛ディスプレイと呼んでいますが,それはおよそ次のようなシーケンスで展開されます.なお,以下の一連の写真は,同じ日のものではありません.


1.オスの縄張り内にメスが入ってきて止まります.止まってすぐに産卵を始める場合もあります.メスの止まる位置は様々ですが,水面またはやや水面から離れた場所で,比較的低い位置なのがふつうです.
2.オスは静止したまま腹部先端を曲げて求愛信号を送ったり,飛びながら求愛信号を送ったりします.オスはゆっくりと飛んでメスに近づいて行きますが,メスに交尾受容する気がなければ交尾拒否姿勢を取ったり遠くへ飛び去ります.遠くへ飛び去った場合は,通常それで一連のシーケンスは終了します.
  写真11.6月2日.メスがオスの縄張りに入ってきた.オスは腹部先端を上げて求愛信号を送っている.
3.メスが遠くに逃げず再び近くに止まったならば,オスはさらにメスに対して同様の求愛を続けます.メスが低く飛んだときには,オスは腹部先端を曲げたまま翅を少し開き,水面に浮かんで水に流されるといった特異なディスプレイを行うことがあります.
  写真12.6月30日.浮かぶディスプレイ.腹部先端を上げ,腹面の白い色を際立たせて,メスを誘っている.後翅を水面に当てて浮かぶ.
  写真13.6月30日.浮かんで流されるディスプレイ.1:浮かぶ直前,2:流され始める,3:メスが惹かれる,4:メスが近づく.
  写真14.6月30日.止まったメスにまた近づいて行くオス.
4.こういったやりとりを何回か繰り返した後,メスが交尾受容の状態になれば,メスは少し飛んで,水面から離れたやや高い,それまでとは違う位置に止まります.この時点で求愛信号をまだ送っていないオスは,止まったメスの方向に定位し,求愛信号を送ってからそのメスに接近していきます.求愛信号をすでに送ったオスは,そのままメスに近づいていきます.
  写真15.6月30日.メスは少し高いところへ移動した.それにさらに近づいて行くオス.
5.交尾を受容する気のあるメスは,オスの接近に気づくと,さらにもう一段高いところへ飛んで止まるときもあります.
6.オスはゆっくりと飛んで慎重にメスに近づいていきます.このとき交尾拒否姿勢をとらず,腹部をまっすぐにしたままであれば,オスは交尾を受容しているとみて,メスの翅の偽縁紋付近にまず脚を置き,するすると翅の前縁に沿って頭まで降り,タンデムを形成します.なお,偽縁紋付近に着地せず,いきなり背中につかみかかることもあります.
  写真16.6月30日.メスはさらに高いところへ移動した.それを追い,さらに近づいて行くオス.
  写真17.6月30日.オスは偽縁紋に取りつき,頭まで降りてタンデムを形成する.右はタンデムを形成するシーケンス.
7.タンデムになると,すぐに移精行動に移ります.時間は数秒程度です.
8.移精行動が終われば,直ちに交尾に移行します.このときオスは翅を大きく開くことが多いです.交尾時間は2分程度です.
  写真18.6月30日.移精行動(左)から交尾(右)へと至る.
  写真19.5月30日.若いペアの交尾.交尾は2,3分で終わる.
9.交尾が完了すれば,オスはメスを放し,メスは十数秒間をじっとしてから,オスの縄張り内で産卵を始めます.オスは少し離れた見通しのよいところでこのメスの産卵を警護します.
  写真20.6月6日.オスの警護を受けながら,オスの縄張り内で産卵するメス.



 以上が求愛ディスプレイの典型的なシーケンスです.ここで,もう一度,同じ日,同じ個体による求愛ディスプレイのシーケンスを時系列で紹介します.異なる場所でも,ほとんど同じ順序でディスプレイが進行しているのが分かるでしょう.写真はすべて2010年5月30日,11:08にディスプレイを発見して記録し始め,産卵を始めてしばらく後の11:21までの間に記録されたものです.これを見ていただくと,オスは何度も何度もメスにアプローチをかけ,やっとの事でメスがオスを受け入れていることが分かります.オスの苦労は大変だ.

写真21.縄張りに入ってきたメスに対するディスプレイ.
    11:08'10" 縄張り内にメスが入ってくると,オスは低い位置を飛んでメスに近づいて行く.
    11:08'42" 何度かメスの周囲を飛んだり止まったりした後,メスの後ろの位置に静止した.
    11:08'52" 飛んでメスに接近を試みたが,交尾拒否姿勢を受けた.
    11:09'14" その後もさらに何度もメスの周囲を飛び接近を試みたが,メスはそれを受け入れず,ついに飛び立った.
    11:09'20" オスもメスを追いかけて移動をした.
写真22.さらにメスを刺激し続けるオス.
    11:09'36" オスはもう一度仕切り直しをする.メスに対して水面の位置から腹部を立て,メスを刺激する.
    11:10'22" オスは少し移動してメスとの距離を縮めていく.
    11:10'56" その位置で小さく飛んで姿勢を変えながら,腹部先端を上げ,白色部を出してメスを刺激し続ける.
    11:11'00" 再びメスの後方に静止する.
    11:11'06" 飛んでメスに接近するも,またもや交尾拒否にあって失敗.
写真23.位置を変えてもう一度挑戦するオス.
    11:11'14" もう一度元の位置に戻って腹部を立てメスを刺激し直す.
    11:11'18" オスは少し位置を変え,水面に浮かんで,メスの方に向かって腹部を立てる.
    11:11'20" ついにメスが反応したのか,メスがオスの近くに自ら飛んできた.
    11:11'24" そしてオスの近くに静止した.オスは元気が出たのか,ますます腹部を立ててメスを刺激する.
    11:11'30" オスは飛んで,三度メスに接近を試みるが,メスはまたまた交尾拒否姿勢で反応.この場所ではいやなのだろうか...
    11:11'32" メスは飛び立ち,少し高い位置に移動を始めた.
写真24.ついにメスはオスを受け入れ,オスは交尾に成功した.
    11:11'30" 水面から離れた高い位置に止まったメスに,飛んで近づくオス.オスが近づいてもメスは交尾拒否姿勢をとっていない.
    11:11'42" 腹部は下げたまま,翅を閉じたまま,というのが,交尾受容姿勢.
    11:11'44" オスはメスの翅の偽縁紋付近に脚を置きメスに接する.
    11:11'44" 着地すると直ちにするすると胸部付近まで下がっていく.
    11:11'46" オスは尾部付属器でメスの前胸を挟み込み,タンデムを形成する.
    11:11'58" 移精行動を行う.移精行動は約6秒間で終わった.
    11:12'22" 交尾になる.
    11:18'46" オスの警護の下で産卵を始めたメス.

 産卵意欲のあるメスは,オスの縄張りに入ってくると,オスの存在を気にすることなくすぐに産卵を始めることが多く見られます.産卵を始めたメスに自分の精子で受精させるために,オスは新たに入ってきたメスに対して求愛ディスプレイを始めます.このとき,メスに対して重要な刺激になっているのは,おそらくオスの腹部先端の裏側の,真っ白になった部分です.これは同属のミヤマカワトンボにも見られます.オスはメスに対して腹部先端の白い部分を見せつけます.時には目の前にそれをかざすこともあります.
 同じところで産卵していても,すでに交尾を済ませたメスに対してはこのような行動は見られませんので,どうやらオスはメス個体を識別しているようです.アオハダトンボはこういったディスプレイを繰り返して,複数のメスと交尾をし,縄張り内に複数のメスを囲い込んでいきます.

写真25.6月30日.オスの縄張り内に入ってきて産卵を始めたメスに対するディスプレイ(4秒間の動き).腹部先端に白色部に対してメスが反応する.
    1:オスが縄張り内に入ってきた産卵メスに接近,2:メスが飛び立ちオスが止まって腹部先端を誇示,3:メスがオスの背後に静止.
写真26.5月30日.腹部先端の白色部を誇示するオス(左)と,産卵に入ってきたメスの目の前でそれを誇示するオス(右).
写真27.左上・右:6月20日,左下:6月30日.複数のメスが縄張り内に囲まれ,いわゆるグループ産卵をしている.

 アオハダトンボには潜水産卵も見られます.ミヤマカワトンボに比べるとその事例は少ないように思えますが,沈水植物に産卵するときには潜ることが多いようです.翅の一部を水面上に出していたり,完全に体全体が水面下に沈んでいる場合があります.オスは潜水したメスも認識しているようで,その上をときどき飛んで警護をします.

写真28.6月13日.沈水植物に産卵するアオハダトンボの潜水産卵(左)と,その上空を飛んで警護するオス(右).

 アオハダトンボは,その後,7月の中旬くらいまでは元気に活動しています.そしてだんだん姿を消していきます.自然死ということもあるでしょうが,この時期獰猛なコオニヤンマが成熟して川に戻ってくるころで,老熟したアオハダトンボを食している姿をときどき見ます.トンボの移り変わりにはこういった生物間関係も重要な役割を果たしているように思えます.

写真29.7月9日.7月に入ってもまだ活動をしているが,コオニヤンマに食されている個体も見られる.右下2枚はコオニヤンマ.

 アオハダトンボは兵庫県の絶滅危惧種Aランクになっています.まだ各地の河川でその姿は見られていますが,消滅したところもあります.下の写真は,兵庫県中北部の産地で北近畿自動車道の橋桁の下になり,川の富栄養化によってアオハダトンボの姿が消えた場所で撮られたものです.現在生息している河川でも,写真20のように富栄養化が感じられ,先行きが不安です.また最近は水害が多く発生し,河川改修や浚渫によって植生が剥ぎ取られ,数が減っている地域もあります.水害が多く発生しているのが温暖化による気候変動が原因しているのだとしたら,温暖化によって間接的に影響を受けている種ということができるでしょう.

写真30.1997年6月7日.かつて大産地であった清流で産卵するアオハダトンボのメスたち.