トンボ歳時記総集編 8月−9月上旬

夏に現れる金緑色のトンボたち
写真1.山中にある植生豊かな池.

 ここでは,一般にエゾトンボと呼ばれるグループのトンボを紹介します.エゾトンボ属のトンボは北方に多いのですが,兵庫県には3種が分布しています.エゾトンボ,タカネトンボ,ハネビロエゾトンボです.それぞれ生息環境が異なっています.エゾトンボは湿地のトンボです.タカネトンボは池沼性のトンボで,生息地のイメージは写真1のような池です.ハネビロエゾトンボは流水性のトンボで,林の中の細流に生息しています.このうちタカネトンボが生息環境選好性がかなり広く,エゾトンボやハネビロエゾトンボと同じところで幼虫が見つかることがあります.

 ではまず,エゾトンボから始めることにしましょう.兵庫県では,エゾトンボは亜終齢幼虫で越冬し,4,5月頃に終齢幼虫になります.羽化は6月に行われます.6月18日に処女飛行に飛び立ったメスを捕らえたことがあります.未熟な成虫は,林縁の梢付近や,樹林に囲まれた空間で,やや高いところを旋回しながら摂食します.

写真2.左:日付不詳,右:5月20日.左はオスの自宅羽化で,オスも未熟な間は胸側に黄条がはっきりと出ている.右はメスの自宅羽化.
写真3.7月10日.未熟なエゾトンボが,林間の空間を旋回しながら摂食飛翔をしている.
写真4.左:7月15日,右:8月2日.未熟なメスのエゾトンボが峠の道路上で摂食飛翔をしている(左).成熟した個体が林内で休息している(右).

 オスが湿地に帰ってくるのは,早いもので7月中旬です.私の観察では,7月19日に湿原をパトロールするオスを見ています.8月に入ると,たくさんの成熟したエゾトンボが,湿地を飛翔するようになります.このときは,はやや低いところを,一定の範囲を行き来しながら,飛翔します.おそらくメスを待っているのでしょう.

写真5.8月9日.日のよく当たる湿地で,パトロール飛翔をするエゾトンボのオス.胸側の黄条は消えている.
写真6.8月9日.比較的低い位置を往ったり来たりして飛んでいるエゾトンボのオス.
写真7.8月9日.少し高い位置を飛ぶこともあるが,未熟なときの摂食飛翔ほどではない.
写真8.8月13日.うす暗い湿地でパトロール飛翔をするエゾトンボのオス.停止飛翔を交えて飛ぶ.
写真9.8月13日.右の写真では背景に湿地の泥面が見えている.複眼は宝石のように光る.

 7月下旬から8月に入ると,エゾトンボの繁殖活動が見られるようになります.産卵場所は,湿地の浅い流れや,湿地そのものです.浅く泥や砂利がたまっているところで,腹部第10節を上に反り返し,突き出た産卵弁を下にして,水や砂利,泥の上をたたいて放卵します.産卵時の腹端の形状はこれらエゾトンボ属3種の大きな特徴で,他のトンボでこういった形状が見られるのは,キトンボぐらいです.

写真10.8月1日.湿地から流れ出る細流で産卵するエゾトンボのメス.時に打水することがあるが,だいたいは泥面を腹端で打っている.
写真11.8月1日.水があるかないかといった細流の水際に腹端を打ちつけようとしているメス.
写真12.8月1日.左は腹端を打ちつける前の降下姿勢.右は腹端を打ちつけた瞬間.
写真13.8月11日.湿地で産卵するエゾトンボのメス.腹端を上に振りかぶって,この後降下して打泥する.
写真14.8月11日.打泥の瞬間.左は斜面になっているところに打泥している.産卵弁の先端が当たっていることが分かる(右).

 エゾトンボがたくさんいるような大きな湿地では,どこで産卵するかの見極めが難しく,なかなかエゾトンボの産卵を観察することが難しいです.写真に収めることができた観察機会は,上の2回だけでした.
 さて,その後もエゾトンボの姿は,秋に入るまで見続けることができます.9月になり秋の日差しを感じるころになると,比較的よく日の当たる開けたところに出てくるようになります.オスは稲刈りの終わった水田の上を飛んでいたりします.1980−90年代には,神戸市西区の田園地帯へこの時期に出かけると,水田や休耕田の上をエゾトンボが群れて飛んでいました.たくさんの採集記録があります.しかし現在ではまったく見られなくなりました.平地の水田地帯では完全に姿が消えたと言ってよいでしょう.

写真15.9月23日.日のよく当たる小さな水たまり状の湿地の上で旋回飛翔しているエゾトンボのオス.秋の日差しで全体がやや黄色っぽくなっている.
写真16.9月23日.上と同じ.右は急旋回する瞬間で,頭は水平のまま体だけ旋回する方(進行方向左)に傾けている.

 すっかり秋色になり,アカトンボたちが盛んに活動している10月,まだ少数の個体が生き残っていて,日当たりのよい水田を飛び回っています.
 エゾトンボは,この4,5年で急激に減少しました.数年前にいた場所から次々と姿が消えているのです.原因は分かりません.湿地性のトンボなので,温暖化による乾燥化が疑わしいのですが,まだよく分かっていません.今後注視していく必要のあるトンボです.

写真17.10月11日.秋の日差しの中,稲刈りのすんだ水田の上を飛んだり止まったりして過ごすエゾトンボのオス.
写真18.10月11日.セイタカアワダチソウが咲いている.
写真19.10月11日.ススキなどが穂を広げ始めた時期である.
写真20.10月18日.兵庫県では10月下旬まで記録があるが,私的にはこの10月18日の観察がもっとも遅い記録である.

 では次はタカネトンボを紹介しましょう.「タカネ」は「高嶺」だと思いますが,名の通り,どちらかといえば標高の高いところにある池で見ることができるトンボです.もっとも,平地の池でも,樹林に囲まれた日があまり当たらない池には顔を出すことがあります.
 タカネトンボもやはり,ふつう亜終齢幼虫で越冬し,6月頃から羽化してきます.7月には,未熟な成虫が,林縁の木の梢付近を旋回しながら飛んで,摂食を行います.今から30年ほど前は,六甲山のハイウエイ沿いによく飛んでいました.幼虫もあちこちの池で採れ,極めてふつうのトンボでした.しかし,近年非常に限られた池でしかその姿を見ることができなくなっています.私が写真を撮ってきたこの10年ほどの時期には,すでに数が減っており,未熟なタカネトンボが空を飛ぶ姿を記録できていません.そこで,たまたま北海道で見たタカネトンボの未熟個体の飛翔を掲載しておきます.

写真21.7月22日.北海道.タカネトンボの未熟個体の摂食飛翔(左).北海道はエゾトンボ属が多いので捕獲して確認したもの(右).上がオス,下がメス.

 さて,タカネトンボの繁殖活動がよく観察できるのは,ふつう8月に入ってからです.ただし,交尾についてはまだ観察例がなく,どこで交尾しているのか分かりません.オスは,山上にある樹林に囲まれたうす暗い池の縁を,停止飛翔を交えながら往ったり来た入りしてメスを待っています.ほとんど止まることのないトンボですが,稀に池の周囲の木の枝に止まることがあります.

写真22.7月29日.樹林に囲まれたうす暗い池を飛ぶオス.停止飛翔する時間は一瞬で短いので,なかなか写真に収めるのは難しい.
写真23.9月4日.池の少し高い位置を,日に当たりながら周回飛翔するオス.少し涼しくなってくると,日当たりのある場所も飛ぶようになる.
写真24.9月4日.池の周囲をメスを探しながら飛んでいるオス.
写真25.9月4日.池面上を飛ぶオス(左).タカネトンボはパトロールしている池のまわりに生えている木の梢に止まることがある(右).

 オスがパトロールしている池にメスは産卵にやって来ます.タカネトンボの産卵方式は特異です.産卵に来たメスは,他のエゾトンボ属同様,常に腹部第10節を上方に大きく反らし産卵弁を下に開いて,生殖口を開いたような状態にしています.このとき卵が生殖口から出ているのかどうかはよく分かりません.

写真26.8月3日.タカネトンボも,他のエゾトンボ属と同じように,産卵にやって来るメスは,腹部第10節を上に反らし,産卵弁を下にして生殖口を開く.

 その状態で,まず岸の方に背を向けて一度打水して水滴を腹端に含ませ,卵をその中に拡散させます.その後,体を180度回転させて岸の方に向き直り,岸に近づいて,体全体をひねるように腹端を振り下ろし,アンダースローで卵を含んだ水滴を岸の方に向かって飛ばします.水滴を投げた瞬間,振り下ろした腹端は岸の方に伸び,体が天地逆さまに近い恰好になります.

写真27.7月29日.岸に背を向けてまずは打水して飛び上がり(1),次に岸に方に向き直り,角度のついた岸斜面に向かって少し移動する(2).
写真28.7月29日.体が仰向けになるほどに回転させ,アンダースローで水滴(矢印)を岸に投げる(3).投げた後向き直り(4),ふたたび打水するために移動(5).
写真29.7月29日.水滴を投げる直前の腹端部には,水滴の中にピンク色の卵が浮かんでいるのが見える(矢印).

 上の写真27−29の各写真は,標高800m以上のところで観察したものです.次にもう少し標高の低い650mのところでの観察を紹介しましょう.標高が変わったからといって特に変わることはありませんが,ちょっと産卵が見られる時期が遅くなるような印象があります.

写真30.8月17日.岸とは反対向きで打水し(左),向きを変えて(中),岸に向かって水滴を飛ばす(右).場所は変わっても産卵方法は変わらない.
写真31.8月17日.放卵後,打水しに戻っていくところ(左)と打水後放卵に行くところ(右).打水前は産卵弁が見え水滴がないが,打水後は水滴がつく(矢印).
写真32.9月4日.浅い泥底の池で産卵しているタカネトンボのメス.
写真33.9月4日.打水した後岸に向かおうとしているメス(左)と,垂直なコンクリート岸に向かって卵を飛ばすメス(右).
写真34.9月4日.産卵中のタカネトンボのメス.
写真35.9月4日.上の個体とは別の個体.少し複眼が赤く見える.打水して上昇したところ(左)と,岸に向かうメス(右)

 産卵活動は8月から9月にかけてよく観察できます.10月1日に,標高の低い池での産卵を見たことがあり,私の産卵の記録としてはもっとも遅いものになります.オオルリボシヤンマなどでもそうですが,ふつう標高の高いところに生息しているトンボは,秋になると標高の低い池で目撃できることがあります.標高の低いところでもタカネトンボやオオルリボシヤンマの幼虫が採れるので,活動時期が少し遅くなっているだけかもしれません.いずれにしても,10月中にはタカネトンボの姿は見られなくなります.

写真36.9月15日.標高800m付近にある,湧きだし水でできた小さな池でのパトロール活動.この時期ルリボシヤンマが飛んでいる.

 では,最後は,ハネビロエゾトンボです.エゾトンボ属3種の中では一番出会うのが難しいとされています.確かに限られた場所でしか見つかりません.しかし,樹林に囲まれた細流という,普段あまり人の手が入らない生息環境が幸いしてか,いずれの生息地でも,毎年比較的安定してその姿が見られます.ただし神戸市内では,かつて六甲山を初めとしたあちこちで未熟な成虫の飛翔が観察できましたが,最近はほんのときどきその姿を見るだけとなりました.
 ハネビロエゾトンボの羽化は,6月下旬頃から行われます.このトンボもふつう夜中に羽化しますので,例にって自宅羽化を観察しました.羽化は夜中の1:52ぐらいに始まりました.自動シャッターにしておいて記録したので,羽化する前の幼虫の動きがなかなか面白かったです.定位に至るまで,結構動きまわっているのでした.

写真37.7月1日.ハネビロエゾトンボの自宅羽化.脱皮し始めたところと,静止期.
写真38.7月1日.腹部を抜いてから,開翅,そして全体が濃く色づくまで.この間約3時間かかっている.

 羽化した後の未熟な成虫は,エゾトンボやタカネトンボと同じく,林縁の空間や広場などで,少し高いところを往ったり来たりして飛翔し,摂食活動を行います.未熟な期間は2,3週間ほどで,その後生息地に戻ってきて,繁殖活動を始めます.

写真39.7月1日.低く旋回しながら摂食飛翔をするハネビロエゾトンボのメス.
写真40.7月1日.高いところ低いところ,色々なところを飛びながら摂食飛翔を続けるハネビロエゾトンボの未熟なメス.

 7月下旬から8月上旬にかけて生息地を訪れますと,流れの上を長い時間停止飛翔しながら縄張りを形成しているオスに出会います.他のエゾトンボ属に比べると,ハネビロエゾトンボの停止飛翔時間は非常に長い感じがします.それゆえ,写真には撮りやすい相手です.飛翔写真を撮りたいと思ったなら,ハネビロエゾトンボが練習台にはもってこいですが,いかんせん,ハネビロエゾトンボを見つける方がむずかしいかも知れませんね.
 通常は,フライヤーですので,止まることが少ないエゾトンボ属ですが,ハネビロエゾトンボは結構よく止まります.特にお昼前になるとよく止まるように思えます.止まってじーっとしてメスを待っているようです.面白いことに,オスが並んで止まることがあります.オスはメスがやって来そうなところを知っていて,そこが見渡せる場所に止まりますので,そこにオスが集まって来る結果,同じところに止まるということになるのかもしれません.

写真39.7月25日.流れの上で停止飛翔するハネビロエゾトンボのオス.前後の翅を交互にはばたくのは停止飛翔の特徴.
写真40.7月25日.飛んだり止まったりしながら縄張りをパトロールするオスたち.
写真41.8月4日.停止飛翔するハネビロエゾトンボのオス.他のエゾトンボ属と違って,オスに胸側に小さな黄斑が残るのが特徴である.
写真42.8月5日.ふつうは1頭だけで止まることが多いのだが(左),ハネビロエゾトンボは2頭で止まることがよくある(右).
写真43.左:8月4日,右:7月25日.オスは縄張り意識は結構強いにもかかわらず,ときどきこのように2頭が争いもせず並んで止まっている.

 オスがメスを待ってパトロールしているときに,産卵メスが入ってくると,オスはうまくそれを捕捉してタンデムになります.そして遠くへ飛び去ることがふつうです.たまに近くに止まって,そのまま交尾を行うことがあります.そのせいか,他のエゾトンボ属よりは交尾の観察機会が多くなっています.

写真44.8月5日.ハネビロエゾトンボの交尾.突然上空に交尾ペアが現れ,静止した.きっと近くの場所でメスを見つけたのだろう.
写真45.左:8月27日,右:9月3日.ハネビロエゾトンボの交尾.交尾は樹林内で木の枝にぶら下がって行われる.

 ハネビロエゾトンボの産卵は,早朝に見られるという話を聞きます.ただ,私は早朝に観察に行ったことがありません.私の観察では,正午前後に何頭かが続けて産卵にやって来るようです.産卵は,浅い流れの上で,水面ギリギリのところを往ったり来たりして飛んで,打水した後打泥という感じで,トントンリズムよく産卵弁を地面にたたきつけています.例によって,腹部第10節を上方に反らして,もともと下に伸びている産卵弁とともに,生殖口が開くような姿勢です.後方から見ると,ピンク色の卵が出てきているのが分かります.なお,先に打泥と書きましたが,実際に写真を撮ってみると,石の表面に産卵弁をたたきつけているので,打石産卵と呼んだ方がいいみたいな感じです.打水産卵を行うときもありますが,多くはその後打泥します.産卵は7月下旬から9月に入るまで見ることができます

写真46.7月25日.産卵に入ってきた若いメス.浅い砂地で産卵をしている.
写真47.7月25日.水面近くを右へ左へと飛んで,打泥する,というか,岩の表面をたたいているように見える.
写真48.8月5日.水面近くを飛び(左上),わずかに水の流れる石の上をたたいている(右).開いている生殖口から卵らしきものが出ている(左下).
写真49.8月5日.腹部第10節を上方に反らし,下に向いた産卵弁とともに,大きく口を開くように腹端が開いている.
写真50.8月5日.勢いをつけて打泥する直前の姿勢(左),そして石の表面に産卵弁をたたきつけている(右).
写真51.右上:8月5日,他:8月4日,主に打水産卵するメス.やや深い水たまりの縁で産卵している.
写真52.8月27日.産卵は8月下旬でもまだまだ行われている.わずかに水紋が見えるが,打泥する前に打水した跡である(左).

 こんな活動を繰り広げながら,ハネビロエゾトンボは10月までその姿を見ることができます.秋になると明るい流れの上に出てきて産卵するのを見ることがあります.アカトンボが最盛期を迎えるころ,ひっそりと成虫が消えていきます.

写真53.9月3日.翅の色などを見ていると少し日齢が進んでいるように見えるが,まだまだ元気に林内を飛んでいるオスである.
写真54.10月6日.明るいところへ出てきて活動している秋のハネビロエゾトンボ.体色にくすみが感じられる.
写真55.10月6日.オオヤマトンボのように,金緑色が赤っぽい色に変わってきている.ここではミヤマアカネといっしょに活動していた.