成虫の生活
成虫の時代は3つに分けられる
トンボの成虫の時代は,大きく3つに分けることができます.それぞれ,前生殖期(ぜんせいしょくき),生殖期,後生殖期(こうせいしょくき)と呼ばれます.これらの言葉から分かるように,前生殖期とは,生殖活動を行うまでの未熟な時期をさし,生殖期とは生殖活動(交尾や産卵)を行う時期で,後生殖期とは生殖活動を行わなくなった,いわゆる老後の時期です.人間も成長にしたがって同じように時期を分けることができますね.
成虫の生活
前生殖期 − 未熟な時期のトンボ
前生殖期のうち,羽化した直後の短い期間の個体をテネラルと呼ぶことがあります.テネラルな個体とかテネラルな状態とか言います.この時期のトンボはまだ体が非常にやわらかく,色も白っぽいものが多いです.ただいつまでをテネラルな時期と呼ぶかは,専門家によってもさまざまな考えがあります.言葉の上では,からだが固まるまでをいうようですが,普通は羽化してから24時間程度のものと考えればよいと思います.
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テネラルなオジロサナエのメス 翅もからだも白っぽい |
テネラルなタイリクアカネのメス 翅がぬれているように白く光っている |
さて,羽化したトンボは,しばらくは未熟な時期を過ごします.アオハダトンボのなかまなど,一部を除くと,この時期のトンボは,たいてい羽化した池や川をはなれて過ごしています.どれくらいはなれるかは,トンボの種類によって大きくちがっています.平地の水田で羽化したアキアカネは,100キロメートル以上も移動することがあり,また高い山に上がることでよく知られています.
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ニホンカワトンボの未熟なオス 林の中の日だまりでエサをとりながら過ごす |
アキアカネの未熟なメス 高い山にあるスキー場のゲレンデで夏を過ごす |
未熟な時期のトンボの多くは,成熟したトンボとはちがった体色をしていることが多く,別種のように見えることがあります.シオカラトンボのなかまのオスは,体に青白っぽいこなをふいているような色をした種類が多いのですが,これは,成熟しながら少しずつ色が変わっていきます.またアオモンイトトンボやモートンイトトンボのなかまは,未熟なときは赤っぽい体色をしていますが,成熟するとくすんだ緑色になります.
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シオヤトンボの未熟なオス 体色は黄色と黒かっ色のまだら模様 |
シオヤトンボの成熟したオス 腹部と胸の前面に青白いこなをふいている |
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モートンイトトンボの未熟なメス 体色はオレンジ色をしている |
モートンイトトンボの成熟したメス 未熟な個体とは似てもにつかないオリーブ色 |
未熟な時期は,主に,餌をとってくらしています.たくさんの餌を食べてからだをつくっていく時期なのです.
前生殖期の長さは,種によって大きく違います.普通は1週間から2,3週間までです.一番長いのは,初夏に羽化し秋になってから繁殖活動を始める秋季種で,3ヶ月以上になります.暑い夏の時期には,すずしい林の中で,ひっそりとくらしています.これらの秋季種は,成熟するために時間がかかるというのではなく,生殖休眠(せいしょくきゅうみん)といって,夏の間はあえて成熟しないようなからだのしくみがあると考えられています.生殖休眠ができることによって,早く成熟してしまうことなく,秋に成熟して産卵が行えるようになっています.アオイトトンボのなかまや,アカトンボのなかま,そしてカトリヤンマ,ミルンヤンマなどがそのように過ごしています.
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うす暗い林の中で夏を過ごすミルンヤンマのオス 8月2日:夏が終わるまで未熟な時期を過ごす |
林の中で過ごしているコノシメトンボの未熟オス 8月18日:このあと9月まで未熟な時期を過ごす |
成虫の生活
生殖期 − もっとも活動的な時期のトンボ
前生殖期が終わると,多くのトンボたちは,繁殖するために水辺へ帰ってきます.水辺で見かける多くのトンボはオスです.オスは水辺でメスがやってくるのを待っているのです.オスとメスの出会いをランデブーと呼んでいます.多くの動物がそうであるように,トンボも,オスがメスをさがそうとします.でもトンボは,前生殖期に広く散らばってしまうために,オスがメスをさがすのは,実は容易なことではありません.そこで,メスがやってくるのが一番確実な水辺で,メスを待つ作戦(専門的には戦略:せんりゃくといいます)をとることになります.
このとき,じっと止まって,時々周辺を飛んでメス待つタイプのパーチャーと呼ばれるトンボと,飛び回ってメスをさがしながら待つフライヤーと呼ばれるトンボがいます.パーチというのは英語で perch で,止まるという意味です.一方フライは fly で飛ぶという意味ですね.
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ベニトンボのオス 池の畔で止まってメスを待つパーチャーである |
コヤマトンボのオス 川の上を飛びながらメスをさがすフライヤーである |
ところで,トンボの中には,水辺でオスをほとんど見かけない種類がいます.マルタンヤンマがその例です.ミルンヤンマ,カトリヤンマ,ヤブヤンマ,ネアカヨシヤンマなども,マルタンヤンマほどではありませんが,水辺でオスを見つけにくい種類です.これらのトンボは,明け方や夕方に上空を群れになって飛ぶ種類が中心になっています.多産地では,明け方や夕方には観察しやすいのですが,オスの繁殖活動や交尾の観察が非常に難しい種類です.これらのトンボのランデブーは,水辺からはなれた林の中などで行われているようです.なおメスの産卵行動は観察が比較的容易です.
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林の中でメスを待つヤブヤンマの成熟オス このオスは休んでいるのでなくメスを待っている |
多産地では産卵は比較的容易に見られる ネアカヨシヤンマのメスの産卵 |
多くのオスが水辺でメスを待つのに対し,成熟したメスは,大なり小なり水辺からはなれた,オスの目が届かないところで過ごしています.メスの卵巣(らんそう)では,卵が次々につくられていきます.卵が成熟すると,メスは産卵のため水辺にやってきます.そして産卵が終わると,次の卵が成熟するまでの数日間,水辺からはなれて生活します.ですから数日に一回だけ,メスは産卵のために水辺にやってくることになります.オスはこのわずかなチャンスに賭けているのですね.
メスは一度オスと交尾すると,そのオスの精子を腹部の先端部にたくわえていて,産卵するときにその精子を使って自分の卵と受精させるので,産卵の直前に交尾する必要がないのです.ですからメスにとっては,産卵に来たときにオスに交尾を求められるのは非常にやっかいなことなのです.そこでオスに見つからないように,水面低くすばやく飛んで産卵にやってきたり,水辺に止まっているオスの視線の陰になるような場所を選んで産卵するトンボが結構多くいます.またオスが水辺にやってくる時間をはずして産卵に来たりもします.このあたりのオスとメスのかけひきは,観察していても興味がつきません.
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谷の奥の草原で過ごすウチワヤンマのメス メスは一般に水辺からはなれたところで過ごす |
ヨシの陰で産卵するコオニヤンマのメス 目立たないように草陰で産卵している |
水辺でメスを待っているオスは,産卵のためにやってきたメスのすがたを見つけると一目散に接近して,タンデムになって交尾しようとします.メスは以前に交尾したオスの精子をたくわえていますが,実は一番最後に交尾したオスの精子と受精する可能性が一番高いことが多くのトンボで知られています.ですからオスにとっては,卵を産む直前に交尾することが,自分の遺伝子を持った卵をメスに産ませる可能性を高めることになるのですね.ということで,とにかくオスは,産卵に来た,あるいは来ているトンボと交尾をしようと,気も狂わんばかりにメスを追いかけ回すのです.
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産卵にやってきたメスをつかまえた瞬間の サラサヤンマのオス |
産卵しているメスにタンデムになろうとしている クロスジギンヤンマのオス |
ところで,多くの種類では,メスは,産卵するとき以外,水辺にすがたを現さないのが普通ですが,例外もあります.カワトンボのなかまやトンボ科のコフキトンボ,イトトンボ科のモートンイトトンボやヒヌマイトトンボなど,他にもいくつかあります.これらのトンボは常にオスとメスが入り混じった状態で,ともに水辺で生活をしています.そして,普通オスはそばにいるメスに対して無関心です.こういったトンボでは,オスは,これから卵を産もうとしているメスを,何を目印にして選んでいるのか,という疑問がわいてきますね.本当にトンボの世界は不思議がいっぱいです.
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コフキトンボのオス・メスが並んで静止 上からオス・メス・メス・オス |
モートンイトトンボのオス・メスが並んで静止 上がメス,下がオス |
さて,トンボのオスがメスをうまくつかまえることができたとしましょう.オスがメスをつかまえるとまずタンデムになります.タンデムはむかし「尾つながり」と俗に呼ばれていました.オスが尾部付属器(びぶふぞくき)を使ってメスをつかまえるのです.均翅亜目では前胸(ぜんきょう)をつかむのですが,不均翅亜目では複眼の間をつかみます.
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クロイトトンボのタンデム 尾部付属器で前胸をつかんでいる |
ナニワトンボのタンデム 尾部付属器で複眼の間をつかんでいる |
続いて移精行動(いせいこうどう)に移ります.トンボのオスの生殖器は二つに分かれてて,精子をつくる精巣(せいそう)は腹部の先端部にあり,交尾をするための副性器(ふくせいき)は腹部の根本の第2〜3節にあるので,交尾の前に精子を精巣から副性器に移す必要があるのです.これを移精行動と呼んでいます.なおタンデムになった後に移精行動が見られないときもあるようです.これは事前に移精行動を行っているためだと考えられます.
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アオハダトンボの移精行動 タンデムの後移精行動をし交尾にいたる |
キイトトンボの移精行動 タンデムの後移精行動をし交尾にいたる |
移精行動が終わると,交尾が行われます.交尾はオスの副性器とメスの生殖器が結合することによって成立します.オスの副性器から注入された精子は,メスの生殖器の中の交尾のう(こうびのう)や受精のう(じゅせいのう)と呼ばれるふくろ状の入れ物の中にひとまず入れられます.
実はこのとき驚くべきことが行われていることが,1979年,ワーゲ(Waage)という研究者によって発表されました.アメリカカワトンボというトンボを使って研究されたのですが,交尾中に,オスが交尾のうの中にあるそれ以前に交尾したオスの精子を掻(か)きだしているというのです.トンボのメスは一生の間に何度もオスと交尾し,そのときの精子を交尾のうや受精のうにたくわえています.ですから,交尾したときに,オスは,それ以前のオスの精子を掻きだし,交尾のうの中が自分の精子だけになるようにしているというのです.そうすると受精するのは自分の精子ということになり,確実に自分の遺伝子を持った卵が産み落とされることになります.このように,交尾したオスが,交尾のうの中の精子を自分のものに置き換えるような行動を精子置換(せいしちかん)と呼んでいます.
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ニホンカワトンボの交尾 交尾中翅を閉じたり開いたりする |
ヒメアカネの交尾 ヒメアカネも精子置換をしてるのだろうか |
ところで受精のタイミングですが,卵が卵巣(らんそう)から輸卵管(ゆらんかん)を通って出てくるときに,精子の入った交尾のうの出口を通過し,精子がふりかけられるというしくみになっています.ですから,受精はトンボが産卵するときに行われることになります.このことと精子置換とを合わせて考えると,一番最後に交尾したオスの精子と受精する確率が一番高いということになりますね.
トンボのオスはこのことをよく知っているのでしょうか.多くのオスは,交尾した後,メスを他のオスに取られないように,産卵するメスを見守ります.このような行動を警護(けいご)と言います.もっとも確実な警護は,オスがメスとつながったまま産卵させる方法です.これだとほとんどの場合交尾したメスを他のオスに取られることがありません.アオイトトンボ科,イトトンボ科,モノサシトンボ科,トンボ科のアカネ属などに多く見られます.ヤンマ科ではギンヤンマが例外的にタンデムの状態で産卵します.
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グンバイトンボの連結植物内産卵 モノサシトンボ科のなかまである |
トンボ科アカネ属のキトンボの連結打水産卵 打水後の水紋の中心に卵が見える(→) |
タンデムのまま産卵しないまでも,産卵するメスのそばに常に寄り添って警護するトンボもいます.オオシオカラトンボをはじめとしたトンボ科のなかまに多く見られます.メスを見守りながら飛ぶことを警護飛翔(けいごひしょう)と言います.またカワトンボのなかまのように,オスが交尾したメスの産卵を近くに止まって見守っていて,他のオスが来たら追い払うような行動を取るものもあります.
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オオシオカラトンボの警護産卵 上の青白い個体がオスで下の黒と黄色がメス |
アサヒナカワトンボの警護オスと産卵メス 左に止まっているのは交尾したオス |
しかしながら,すべてのトンボのオスが,このようにメスを他のオスに取られないように,タンデム状態で産卵したり,警護をしたりするわけではありません.サナエトンボ科,ギンヤンマを除くヤンマ科,イトトンボ科でもアオモンイトトンボ属やモートンイトトンボ属,エゾトンボ科などでは,普通交尾してから産卵までの時間が開いていて,メスは単独で産卵に来て,そのまま帰っていくといった感じになります.ただ,この場合でも,オスは水辺でメスを待ちかまえていることが多く,メスが油断して見つかったりすると,オスに交尾を強要されてしまうことになります.
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コシボソヤンマの産卵 夏の昼下がり暗い流れの中でひっそりと産卵する |
オニヤンマの産卵 突然流れに入り産卵を始め,終わると飛び去る |
このように,成熟したトンボたちは,毎日のように繁殖活動(はんしょくかつどう)に明け暮れます.成虫とは,繁殖するためのステージといってもいいすぎではありません.繁殖活動をしない時間帯は,餌を採っているか,休んでいるかという感じです.特に,夏の夕方,大空を飛び回って餌を採るヤンマの大群は,黄昏飛翔(たそがれひしょう)といって,見ていても飽きが来ないほどすばらしいながめです.
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ギンヤンマの黄昏飛翔 夕焼け空を背にして飛び回るギンヤンマ |
ネアカヨシヤンマの黄昏飛翔 ときどき低いところへおりてくる |
こうして,やがて,トンボたちは老熟し,老後を迎えることになります.
成虫の生活
後生殖期 − トンボの老後
老熟(ろうじゅく)すると,生殖活動は行われなくなると考えられていますが,実際のところはよく分かりません.見るからに色があせ,老熟を思わせるトンボはいます.こういうトンボを後生殖期のトンボと考えていいと思います.
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チョウトンボの老熟オス 2006.9.23. 翅もあちこちやぶれ色があせている |
シオヤトンボの老熟個体 翅がくすみからだをつつむ粉も色あせてきている |
ただ,ここまで生き続けるトンボは,実は少数派です.トンボの多くは若いうちに死んでしまいます.羽化の失敗,鳥や大型のトンボや他の昆虫に食べられる,クモの巣にかかる,交通事故,などなど,色々な原因で死んでいきます.私がベッコウトンボというトンボの翅に番号を打って各個体の生存日数を調べてみたところ,平均して13.4日という結果が出ました.ただしこれは主に成熟した個体について調べた結果なので,未熟な時期まで広げて調べるともっと少なくなると考えられます.実際別の生息地で未熟な時期まで含めて調べた結果では6.9日となっています.いずれにしても,平均生存日数は,前生殖期をやっと終わって,生殖期に入って間もなくということになりますから,ほとんどが若いうちに死んでしまうといえるでしょう.
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ムシヒキアブにおそわれたコサナエ おそわれた後突然水面に落ちて来た |
ジョロウグモの巣にかかったキトンボのペア メスの腹部先端には産もうとした卵が見える(→) |
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車にひかれたコヤマトンボの未熟なメス こういう轢死体(れきしたい)はよくみかける |
コオニヤンマに食べられるアオハダトンボ コオニヤンマはどう猛で他のトンボをよく食べる |
トンボの自然死を見ることはほとんどありません.死んで遺体が転がっているのを発見することもほとんどありません.これは,死ぬときも死んでからも,そのほとんどが,他の昆虫や動物の餌になっているためだと考えられます.が,きわめてまれにそういう機会にめぐりあうことがあります.下のオニヤンマは産卵したあとでしょう,ふつうは止まらない地面に止まってじっとしていました.手でさわってみるとすでに息を引き取っていました.眼のかがやきから考えて息を引き取った直後のものと思われます.キトンボの方は,12月29日の発見で,寒くてアリの活動もなかったため遺体が残ったと思われます.
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多分産卵後に力つきて地面に落ちたオニヤンマ 手でさわっても動くことはなく死んだ直後だろう |
池の岸に転がっていたキトンボの遺体 日付は12月29日で寒さで死んだのかもしれない |
こうやって,トンボの成虫は姿を消していくことになります.