本書において使用する下唇各部の名称
■術語に関する問題点の整理と定義
日本におけるトンボ目の下唇各部の術語使用に関しては,研究者によって若干の相違が見られる.その主な違いは labial suture より先の部分をどう呼ぶかという点と,それと関連して「中片」という語をどの範囲を表す語として使うかの2点に集約されると思われる.
Snodgrass (1935) の "Principals of Insect Morphology" では,昆虫一般の下唇各部の名称が明確に定義されている.それによると,labium (下唇)を labial suture で大きく二つに分けた時,その基部の方を postlabium (後下唇),先端部の方を prelabium (前下唇)と呼ぶ.通常 postlabium は postmentum (下唇後基節)という1節片からできているが,昆虫によって postlabium が2節片からなるとき,その基部の方を submentum (下唇亜基節),先端部の方を mentum (下唇基節)と呼ぶ.また prelabium は中心部分の prementum (下唇前基節),labial palpi (下唇鬚),1対の glossa (中舌)と1対の paraglossa (側舌)をまとめた ligula (唇舌)という,3つの部分からなる.
Snodgrass (1935) の "Principals of Insect Morphology" では,昆虫一般の下唇各部の名称が明確に定義されている.それによると,labium (下唇)を labial suture で大きく二つに分けた時,その基部の方を postlabium (後下唇),先端部の方を prelabium (前下唇)と呼ぶ.通常 postlabium は postmentum (下唇後基節)という1節片からできているが,昆虫によって postlabium が2節片からなるとき,その基部の方を submentum (下唇亜基節),先端部の方を mentum (下唇基節)と呼ぶ.また prelabium は中心部分の prementum (下唇前基節),labial palpi (下唇鬚),1対の glossa (中舌)と1対の paraglossa (側舌)をまとめた ligula (唇舌)という,3つの部分からなる.
昆虫の標準的下唇図.Snodgrass(1935).
トンボ目は通常,成虫においてすら,この中の glossa と paraglossa がはっきり分化していないという特徴がある.幼虫についても事情は同じで,とりあえず中央の葉片を median lobe (中片),両側の節片を lateral lobe(s) (側片)と名付け,その器官の相同性について保留してきた歴史がある.例えば,Bërner という研究者は,動鉤が純粋な palpi に該当し,それ以外の側片の部分が paraglossa,中片の部分が glossa である,といったアイデアを提唱した.上図の形だけを見ていると確かにそう見えるかもしれない.
Corbet (1953) は,その後の知見を総合して,lateral lobes は palpi と相同であるので,labial palpi と呼ぶべきである,としたが,一方で median lobe については,まだ相同性が証明されていないので,相同性を意味してしまう術語を使うべきではないとして,median lobe のまま留保しておいた.またトンボの postmentum は1節片からなるので,Snodgrass (1935) の定義による mentum,submentum を使う理由はないとし,Snodgrass (1935) の prementum と同じ意味で mentum を使っている実態に対し,mentum を使わず prementum を使うべきであるとした.
Asahina (1954) はムカシトンボの解剖学的研究によって,median lobe が glossa と paraglossa すなわち ligula であることを証明し,したがって lateral lobes が palpi であると確認し,Bërner のアイデアは間違っていると述べた.しかし,Asahina (1954) は Snodgrass (1935) の prementum と同じ意味で mentum を使い,postmentum に対して submentum を使っている(ただし,submentum は postmentum と同じであると本文中に記している).
素木(1962)は,その編著「昆虫学辞典」において,mentum,submentum に対して Snodgrass の考え方を紹介しているが,同著の用語図解の Plate-11 では,トンボ幼虫の該当部分に対して mentum,submentum を用いている.また素木は,"median lobe of labium" という語の訳語として「下唇中片」を与え,その意味として「Odonata において,下脣基節(mentum)のことをこのように称する.」と解説している.
朝比奈(1969)は「日本幼虫図鑑(北隆館)」の体制模式図において,prementum の部分に mentum という語をあて,訳語に「下唇腮」を,median lobe に「腮の中片」,lateral lobe に「側片」を当てている.
その後,日本の各研究者の幼虫記載論文においては,研究者によって,また同じ研究者でも時期が違うことによって,術語の用法に微妙な「ゆらぎ」が見られる.それらをまとめると以下の3点になると思われる.
Corbet (1953) は,その後の知見を総合して,lateral lobes は palpi と相同であるので,labial palpi と呼ぶべきである,としたが,一方で median lobe については,まだ相同性が証明されていないので,相同性を意味してしまう術語を使うべきではないとして,median lobe のまま留保しておいた.またトンボの postmentum は1節片からなるので,Snodgrass (1935) の定義による mentum,submentum を使う理由はないとし,Snodgrass (1935) の prementum と同じ意味で mentum を使っている実態に対し,mentum を使わず prementum を使うべきであるとした.
Asahina (1954) はムカシトンボの解剖学的研究によって,median lobe が glossa と paraglossa すなわち ligula であることを証明し,したがって lateral lobes が palpi であると確認し,Bërner のアイデアは間違っていると述べた.しかし,Asahina (1954) は Snodgrass (1935) の prementum と同じ意味で mentum を使い,postmentum に対して submentum を使っている(ただし,submentum は postmentum と同じであると本文中に記している).
素木(1962)は,その編著「昆虫学辞典」において,mentum,submentum に対して Snodgrass の考え方を紹介しているが,同著の用語図解の Plate-11 では,トンボ幼虫の該当部分に対して mentum,submentum を用いている.また素木は,"median lobe of labium" という語の訳語として「下唇中片」を与え,その意味として「Odonata において,下脣基節(mentum)のことをこのように称する.」と解説している.
朝比奈(1969)は「日本幼虫図鑑(北隆館)」の体制模式図において,prementum の部分に mentum という語をあて,訳語に「下唇腮」を,median lobe に「腮の中片」,lateral lobe に「側片」を当てている.
その後,日本の各研究者の幼虫記載論文においては,研究者によって,また同じ研究者でも時期が違うことによって,術語の用法に微妙な「ゆらぎ」が見られる.それらをまとめると以下の3点になると思われる.
- Snodgrass (1935) の "prementum" の同義語として,「下唇中片」,「下唇腮」,「下唇基節」が使われている.
- "mentum" が Snodgrass (1935) の "prementum" と同じ場所を示すものとして使われている.
- 「下唇腮」,「下唇基節」が Snodgrass (1935) の "prelabium" と同じ領域を示すように使われている.
■術語に関する若干の補足
ミナミヤンマの前下唇
カトリヤンマの前下唇先端部
Corbet (1953) によると,下唇側片前縁の切れ込みに対し,二つの名称を付けている.一つは crenations であり,もう一つは dentations である.素木(1962)によると,前者には「有扇列歯」,後者には「歯列」という訳が与えられている.Corbet は,いわゆる鋸歯(serrations)は,もっと細かい「切れ込み」を意味する語として使用しており,例えば上図右の下唇側片内縁上にあるような細かなギザギザを指している.日本では従来からトンボ科やエゾトンボ科の下唇側片前縁の切れ込みに対しては「鋸歯」という語を当ててきており,それがオニヤンマ科のように深いとき(上図左)に「歯列」という語を使って,有扇列歯という語はほとんど使われていない.石田(1996)も,この部分には「鋸歯(serrations)という術語を使っている.本 Web サイトでは,crenations,serrations の両方に「鋸歯」という訳語を当てて使用する.ただし,英語表記をするときには,この両者を区別したい.
■主な参考文献
- Snodgrass, R.E., 1935. Principles of Insect Morphology. Cornell University Press, Ithaka & London.
- Corbet, P.S., 1953. A terminology for the labium of larval Odonata. The Entomologist, 86:191-196.
- Asahina, S., 1954. A morphological study of a relic dragonfly Epiophlebia superstes. The Japanese Society for the Promotion of Science, Tokyo.
- 素木得一編,1962.昆虫学辞典.北隆館,東京.
- 朝比奈正二郎,1969.蜻蛉目.日本幼虫図鑑,pp.59-93.,北隆館,東京.
- 石田勝義,1996.日本産トンボ目幼虫検索図説.北海道大学図書刊行会,札幌.
■参考情報へのリンク