太平洋を渡ってくる日本のウスバキトンボ
コスモポリタン種−ウスバキトンボ
アキアカネのオス
図1.ウスバキトンボ.2009年10月4日.秋深くに羽化した個体である.
 ウスバキトンボは,よくコスモポリタン種(世界を股にかけている種)であると言われてきました.最近の研究で,世界中のウスバキトンボに遺伝的交流がある,つまりわかりやすくいえば,世界中のウスバキトンボが一つの繁殖集団を形成している可能性が示されています (Ware et al., 2022).

 一般に広域分布種は各国や地方で個体群が生殖的に隔離された状態にあることが多く,それぞれの個体群で独自の進化*1が起きるために,個体群ごとに特徴的なDNAの塩基配列(ハプロタイプ)が見られることが多いのです.しかしウスバキトンボには,地域独特に発達したハプロタイプがあるようには見えないようです.これは,どこかで生じた突然変異が,移住と自由な交配を通じて,世界中の個体群に広がっていくため,と考えられています.

ウスバキトンボの世界分布
図2.ウスバキトンボの分布・飛来記録.図9に津田(2000)に挙げられている国々を塗りつぶして作成.一国に一つでも記録があれば国全体を塗りつぶしているので,記録の非常に少ない高緯度地域(ヨーロッパ,ロシア,カナダなど)は淡色で表示した.全体として,熱帯収束帯とその周辺が分布中心になっていることが分かる.
 フランス・スペイン以外のヨーロッパの国々は,Web サイト DragonflyPix.com (2022.4.21現在) を参考にして追加,また津田(2000)には韓国が欠落していたので,李(2001)で確認して追加した.熱帯の一部空白部分は津田(2000)には国名が挙がってなかったが,おそらく分布していると見てよいであろう.
 こんな世界を股にかけているウスバキトンボですが,兵庫県では,春になると南方から飛来しはじめ,初夏,そして秋口に大発生します.全国的には,暖かい期間中にはどんどん北の方に分布が広がっていき,北海道の最北部にまで到達します.さらに北へも飛んでいっているようですが,詳細は分かりません.しかし冬の到来とともにこれらはすべて死滅すると考えられています.幼虫が越冬できるのは,日本では八重山諸島ぐらいのようです(尾園ら,2012).

 卵期は5日,幼虫期は34日(関西トンボ談話会,1984)という記録があり,産卵から次の世代が誕生するまで,水中生活期間がわずか1ヶ月少々という短期間です.日本の気候下では,地域によって,2〜5世代ぐらい繰り返せる計算になります.この水中生活期間の短さや多化性は,絶対的移住者の必要条件です.また翅の肛角部が大きく後方に広がっているのは,滑翔のための適応的形質であると考えられています(Corbet, 1999)(右欄外図).

 日本において,ウスバキトンボが太平洋上を飛んでいるというのは,過去にもときどき海上での発見によって報告されていました(例えば,野平,1960).しかしこれを初めて計画的に行ったのは,南方定点の定点観測船上での調査です(朝比奈・鶴岡,1967, 1968, 1969, 1970;橋本・朝比奈,1969).南方定点は,北緯29度,東経135度にあり,Tango と呼ばれています(図11).潮岬の南方約500km,最も近い陸地である足摺岬・種子島から450kmほど離れた太平洋上です.観測船は二交代で観測に当たり,流されても最大直径約90kmの範囲内にとどまるように決められています.まずはこれらの文献を引用しながらお話を進めます.



太平洋を渡ってくる日本のウスバキトンボ
日本の南方定点 Tango における調査
 この調査は,1966年から1968年までの3年間行われ,全部で5種のトンボが確認または採集されました.ウスバキトンボ,ハネビロトンボ,ギンヤンマ,オオギンヤンマ,アジアイトトンボです.ウスバキトンボがほとんどを占めています.ギンヤンマは20頭以上確認されており,海上をかなり移動していることが判明しました.オオギンヤンマは2頭,ハネビロトンボは30頭以上確認されています.またアジアイトトンボが4頭とれていますが,これはセジロウンカやトビイロウンカというイネの害虫と一緒になって飛来していました.

 面白いことに,夜間,灯火に飛び込んでくる個体が結構たくさんいます.1968年8月1日の調査ではウスバキトンボ48頭,ハネビロトンボ8頭,ギンヤンマ2頭がライトトラップで採集されました.しかもこれらのトンボは,すべて夜半過ぎ,月が沈んだ後に灯火にやってきました.このときの月は上弦を過ぎ満月に至る途中で,日没後から月光が海面を照らしている状況でした.トンボは月光を感じているのかもしれません.それにしても夜間も移住飛行をしているというのは驚きです.

 風速は飛来数にあまり関係がなく,風向については西南の風に支配されていて,飛ぶ向きは風の向きに一致していると書かれています.ただデータからは,特に秋になると北から東寄りの風で飛来する場合が若干多くなるように見えます.しかもこの時期に一緒に飛来するトンボ以外の昆虫には,夏季の南方種と違って西南日本に見られる普通種が多いと書かれていて,ひょっとすると秋には北から南への移動が起きているのかもしれません.

 風に乗ってきたウスバキトンボは,ときどき船に止まったり,風の弱い日は船体の風下側を巡回飛行する性質があるようです.またウスバキトンボが飛ぶときは,積雲や積乱雲といった対流雲が出ているときと書かれており,上で述べたように上昇気流が生じているときであることが分かります.やはり省エネルギーの滑翔を中心とした飛行を行っているのでしょう.

 この調査では全部で90種類ほどの昆虫が確認されていて,その中にはウンカなどの餌となる小昆虫もたくさん含まれています.しかしトンボを捕まえて解剖してみても,素嚢が空で,飛行中に摂食している確証は得られていません.飛来した多くのトンボは成熟していて,捕まえて三角紙に入れると放卵するメスもいましたが,飛行中に交尾態になっている個体は観察できていません.

 ウスバキトンボに関しては,面白い現象が報告されています.一つは1967年7月24日のことです.12:20から30分間ほど,台風10号の目が観測船の真上に位置しました.このとき,上空が真っ黒になるほどたくさんのウスバキトンボが飛んでいたというのです.台風がトンボを運ぶことを初めて目視確認できた瞬間です.二つ目は,1968年9月17日,この日は非常に多くのウスバキトンボが飛来しました.ライトトラップでも215頭が採集されています.この日,にわかに信じがたいことですが,ウスバキトンボが海上に静止していて,船が流されるのにしたがって飛来した,と書かれているのです.

 観測船は結構大きく流されて移動しているのですが,どの地点においても飛来にあまり差が感じられなかったということなので,ウスバキトンボは,平面的にはかなり広い範囲を飛んでいるものと推察されます.特に船を目指しているとは考えられないので,この海域を飛んでいるウスバキトンボは相当の数になると考えられます.

 以上のように,この調査から得られることは非常に興味深く,情報は多いのですが,目の届く範囲の観察にとどまっているので,高高度を飛ぶ可能性については述べられていませんし,ウスバキトンボの出発地については,風向きや気圧配置から推定するぐらいしか方法がありません.ところが近年,ウスバキトンボが1,000m程度の高高度を飛んで移住する可能性と,その出発地をかなりはっきりと特定した研究が発表されました.次はこれらの研究を紹介したいと思います.


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西インド洋におけるウスバキトンボの移住の研究
 これらの研究は,インド洋に浮かぶ1,200もの珊瑚礁からなる国,モルディブ共和国で行われました.国のほとんどが珊瑚礁ですから,モルディブにはトンボの生息に適した淡水域はほとんどありません.そういう意味で,モルディブでの観察は,洋上の船上での観察に近いものがあります.そのモルディブでは,昔から,10月のはじめになると突然トンボの大群が現れることが知られていました.そしてこの10月のトンボの大群の出現が,まもなく北東モンスーンが吹き始める予兆として,地元の人たちに知れ渡っていました.

 モルディブが存在する西インド洋はモンスーン気候で,5月から9月には南西モンスーン,11月から3月には北東モンスーンが吹きます.10月というのは,ちょうどその端境期に当たり,モンスーンの向きが変わる季節なのです.そしてそのころ熱帯収束帯がモルディブを通り過ぎて南へ移動します.同様に半年後の4月もモンスーンの端境期で,今度は熱帯収束帯はモルディブを北へ移動していくことになります.

 まず Anderson (2009) は,過去のさまざまの知見,それまでの自身の観察,地元の観察者とのやりとりなどから,ウスバキトンボは,インド南部で9から10月にかけて大量に南下を始めること,そしてモルディブに10月に最初に到着し(インドから600〜1,000km),セーシェルに11月(インドから2,700km),アフリカのアルダブラに12月(インドから3,800km)に出現するという知見をまとめて,ウスバキトンボが,インドから西インド洋を渡って,アフリカに移動するという仮説を立てました.さらにこれが熱帯収束帯の南への移動と軌を一にしていることから,南下する熱帯収束帯の背後に吹く北西モンスーンが,ウスバキトンボを運んでいると考えました.

図4.西インド洋,アラビア海付近の地図.モルディブは1,200もの南北に長く連なる珊瑚礁からなり,アルダブラは環礁の島である.セーシェルはマエー(Mahe)島が首都のある一番の大きな島で,115の珊瑚礁と小さな島々からなる.
 その移動の中で,特にモルディブにウスバキトンボが飛来するタイミングに彼は注目しました.モルディブに最初にウスバキトンボが現れ,さらに数が増えていく10月上旬,毎年のようにモルディブではまだ南西モンスーンが吹いています.つまりトンボの移動方向と逆なのです.600km以上もあるこの海洋上を逆風で飛んできているのか? そこで彼は,もっと上空を飛んできているのではないかと考え,情報を収集しました.するといくつかの面白い情報や現象を見つけました.

 熟練した気象観測者であるモルディブ気象局長からの連絡で,マレ島に隣接するビリンギリで,多数のウスバキトンボが,2008年の10月後半の16:00ごろ,大量に上空から降りてくるのを観察したというのです.局長は,双眼鏡で垂直に上向きに観察したところ,降りてくるウスバキトンボを1,000mの高さまで確認することができた(つまりそれ以上の高さから降りてきている)ことを Anderson に告げています.

 また Anderson は,上空を流れる雲の動きに注目しました.2003年,10月4日には,高高度の雲も低高度の雲も南西の風に流されて北東の方に動いていました.ところが10月5日になると,低高度の雲はまだ北東に流れていましたが,高高度の雲は逆の南西に流れていました.そしてその日にこの年最初のウスバキトンボがモルディブに出現しました.つまり高高度のこの風に乗れば,南西モンスーンが吹いているときでも,インドからモルディブにやって来ることができるわけです.

 そこで彼は,マレ島の隣のフレル島で日本の海洋研究開発機構が2006年に上げたラジオゾンデのデータを収集して確認してみました.データは10月18日(この年ウスバキトンボが初めてマレ島に飛来した日)から11月26日までのものでした.これによると,高度1,200〜2,400mに3〜4m/sの東北東の風が吹く層と,2,900〜5,000mに5〜6m/sのもう一つの東北東の風が吹く層があることが分かりました.やはり高高度に逆向きの風が吹いていたのです.

 これについて,彼は次の図ように考察しています.10月は,南下する熱帯収束帯がモルディブを通過する時期です.この時期まだ熱帯収束帯の北側の気温が高いので,ちょうど温暖前線が進むような感じで南に移動していきます.熱帯収束帯(前線)がモルディブより北に位置しているときには,その前線面はモルディブの上空にあって,そこには前線面を吹き上がる暖気が北東風となって吹いていることになります.これが高高度の風で,低高度の風はそれに対抗して吹いている南西モンスーンです(図5).

図5.熱帯収束帯がインドとモルディブの間を南下するときには,上空には北東の風が吹き海面付近は南西の風が吹く.
 ラジオゾンデによって測定された風速をもとに,仮に5m/sの風が吹いていて,その風とともにウスバキトンボが移動しているとするならば,計算上一日で432km移動することになり,インドとモルディブマレ島の距離を600kmとした場合,1.39日でその距離を移動することになります.驚くべき速さです.熱帯収束帯はこの間を移動するのに約8日かかるそうですので,熱帯収束帯が通り過ぎる前にウスバキトンボがやって来ることに不思議はありません.地元の人が言う「ウスバキトンボの大群がやって来ると北西モンスーンがまもなく吹き始める」というのも理解できます.

 ウスバキトンボが高高度を飛ぶというのは,中国の研究者 Feng (2006) も述べています.夏に中国の渤海湾 Bohai Gulf を渡るウスバキトンボは,夜間に,1,000mの高度に至るまで飛んでいて,一番密度が高いのは温度逆転層のある200−300m,および500m付近であったと,レーダーを使った観測で確認しました.また彼は,ウスバキトンボの動きから,一日に 150−400km 移動するとも述べています.

 ところで,ウスバキトンボが高高度を飛ぶのはほぼ確実なようですが,このモルディブのウスバキトンボの出発地がインド南西部であるという彼の予測は,やはりまだ予測のままです.この問題に関して Hobson et al. (2012) (この中には Anderson も含まれています)は,安定同位体分析法という技術を使って,このウスバキトンボの出発地をかなり正確に見いだすことができたと報告しました.

 彼らは安定同位体として重水素(2H)を用いました.重水素は,水分子(H2O)の水素原子として,自然界の表層水や雨水の中に一定の割合で含まれています.ただし,地域によってその割合が微妙に異なっているのです.まず植物がその水を使って光合成を行い,やがて食物連鎖を通じてトンボの体内に入って代謝され,体を作る物質中に蓄積されていきます.したがって,体の構造をつくる物質中の水素原子には,幼虫の育った地域の重水素の割合が反映されることになります.彼らは,成虫の翅を使って,重水素の割合を分析をしました.標本の採集はモルディブのマレ島とクンフナッドホー環礁で行い,雨水や表層水はインド亜大陸の各地のものを分析しました.

 その結果モルディブのウスバキトンボの起源は, Anderson のインド南部という予測と少し異なって,インド北部,ネパール,さらにより遠くのアジア地域であると推測されました.つまりこのウスバキトンボは,インド亜大陸横断という,より長距離の移動を行って,モルディブにやってきているということになります.


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熱帯収束帯の移動と連動するウスバキトンボの移動
 Anderson の指摘している,ウスバキトンボの熱帯収束帯に関連した移動については,旧くから指摘されてきたことです.例えば,Corbet (1962) は彼自身の観察として,「赤道直下のウガンダのエンデベに(ウスバキトンボが)数多く現れるのは3,4月と9,10月の年に2回,南緯3度40分のタンザニアのシンヤンガでは12月と1月に最も多くなる.これらの時期は,これらの地域における熱帯収束帯の通過時期に一致する.またモザンビークのベイラで,(熱帯収束帯が通過する時期の)雨が降っている1月中頃に,ウスバキトンボが飛んでいくのを見ている」と述べています.

 では,熱帯収束帯とともに移動していくことに,どのような意味があるのでしょうか.Corbet (1962,1999)は,熱帯収束帯は上昇気流が生じ降雨が多いところであるので,熱帯収束帯と一緒に移動すれば,水のある場所に自動的にたどり着くことができる,という適応的価値を強調しています(図6).その結果,雨季や乾季が存在する地域において,風に乗って絶対的移住をするという行動形質が進化したと考えています.彼はそのことを示唆する観察として,ウガンダで,羽化した場所がまだウスバキトンボが集まって繁殖活動するのに敵した状態であるにもかかわらず,羽化と同時に姿を消してしまったという観察例を挙げています.

図6.熱帯収束帯に吹き込む収束風に乗って移動すれば,自動的に水のある場所にたどり着けることを示すアニメーション.降雨によってできるのは一時的水たまりですから,卵期や幼虫期の発育速度が高く,水たまりが干上がる前に羽化する必要がある.
 熱帯収束帯は季節によって南北へ移動します.したがって,熱帯収束帯とともに移動するウスバキトンボも,南北への往復移住を行うことになります.実際,上記の Corbet (1962) の観察はそれを示唆しています.先の Anderson (2009) も,いくつかの状況証拠からアフリカからインドへの復路移住の存在を示唆し,往復移住の可能性に言及しています.

 以上から,ウスバキトンボは,熱帯収束帯の収束風に乗って移動することが繁殖成功度を高めるという選択圧が働いた結果,羽化するとまもなく風に乗って移動するという行動形質が進化し,絶対的移住者となったと考えることができるでしょう.熱帯収束帯にともなって南北に移動するという形質は,熱帯収束帯の移動地域内で生活する限りにおいて非常に有効であると思われます.



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日本にやって来るウスバキトンボの意味するもの
 日本にやってくるウスバキトンボはどこからやってくるのでしょうか.これについては,日本のウスバキトンボを使った安定同位体分析が行われています (Hobson et al., 2021).日本で採取されたサンプルは,鹿児島,滋賀,静岡,埼玉,宮城,北海道の6カ所で,安定同位体としては,翅に含まれる重水素を用いています.

 それによると,4月ごろ鹿児島にやってきている個体は,ミャンマー北部から中国南部,ボルネオのスラゥエシあたりからやってきているらしく,夏になるとインド北部やチベット高原西側あたりから飛来するようになるようです.さらに夏の終わりから秋になると,中国北部や朝鮮半島などの広い地域からやって来ている可能性が高くなるということです.

図7.Hobson et al., (2021) を中心に,今までの情報をまとめて,日本にやってくるウスバキトンボのルート(赤矢印)を描いてみたもの.あくまで一つの仮説である.
 春から夏にかけての飛来元となる地域は,図11を見て分かるように,いずれも熱帯収束帯の移動範囲内です.シーズン終わり近い夏から秋にかけての飛来元である中国北部や朝鮮半島は,このあたりに南方から飛来したウスバキトンボの次以降の世代が起源となっているのでしょう.

 また Hobson et al. (2021) によると,よく言われているように,日本に飛来したウスバキトンボが国内で繁殖・羽化し,その子孫が順次北上していくということではないようです.特にシーズン前半ではほとんどが海外から移住してきた個体であり,後半になっても,国内で羽化した個体の割合は,海外から移住してきた個体より低いということが分かっています.

 これの意味することは,日本で羽化した個体たちは,国内を順次北上するというより,海外へ移住してしまうものが多いということでしょう.つまり日本のウスバキトンボは,日本で羽化しても海外へ行ってしまい,それを補充するのは海外からの移住者だということです.これが事実なら,日本でマーキング調査をしても,国内で再捕獲される可能性は低いということになりますね.

 さて,起源がどこであれ,熱帯収束帯が北に位置するような場所でウスバキトンボが繁殖したとします.その個体群が羽化する時期に,たまたま北向きに風が吹いていたとしたら,このウスバキトンボたちは,その先天的な行動形質にしたがって,熱帯収束帯に向かわず,逆の北方向に飛んでいくことになるはずです.

 夏には熱帯収束帯は日本のすぐ南にまで北上してきています(図11)から,こういった事態は,小笠原高気圧が発達し,それを回り込むようにして南寄りの季節風が吹く日本付近では特にありそうです.これがウスバキトンボが毎年のように日本に飛来する原因ではないでしょうか.現に,南方定点 Tango (ここは熱帯収束帯の位置より北になります;図11)での観察で,5月から8月ぐらいまで,南西方向から吹く風に乗って多くのウスバキトンボが北東の方に飛び去っています.

 日本付近では,この南からの季節風が北の寒気と衝突し,梅雨前線を形成して,その一帯では雨が多く降ります.そこでは一時的にウスバキトンボの戦略が成功しています.その後梅雨前線は次第に北上し,日本は夏を迎えます.これが,ウスバキトンボの飛来前線が日本列島を北上することにつながっているのでしょう.ちょうど前線が生成消滅する一帯が,熱帯収束帯と同じようなはたらきを提供しているように見えます.

 しかし,やがて秋がやって来ると,この行き過ぎた北上が,寒さによって,ウスバキトンボを死滅へと追いやるものと思われます.でもここでよく考えてみると,秋になったときには,秋雨前線という収束帯が南日本に生じます.北の方からはこの収束帯に向かって北風が吹きます.シベリア高気圧の勢力が強くなるとともに秋雨前線は南下し,北からの季節風が強く吹くようになります.これに乗れば,ウスバキトンボは南へ帰ることができます.

 南方定点 Tango での調査でも,9月になると,北西の風に乗って少数のウスバキトンボが現れることが記録されています.ただし寒さに弱いウスバキトンボは,冷涼な北風に乗って,しかも高高度をどれだけ飛べるかということを考えると,この可能性はかなり低くなると思われます.結局,微妙なタイミングで暖かいうちに北風に乗れたごく少数の個体だけが,南への復路移住に成功するのではないかと,私は考えています.

 このように,日本にやって来るウスバキトンボは,おそらくほとんどが淘汰される存在になっています.しかし,もし地球温暖化によって,秋の気温低下が遅れたりするようなことになると,この復路移住の成功率が上がってくるかもしれません.ウスバキトンボは,日本においては,北への移住やその出現時期がよく話題になっていますが,南への移動についても,もっと目を向ける必要があるかもしれません.

 そういう意味では,八重山諸島のウスバキトンボは,興味ある存在だと思います.石垣島では1月でもウスバキトンボの羽化が見られ,成虫は一年を通じて観察できるので(博物館友の会,1986),気温は問題になりません.八重山諸島は,図11から分かるように,熱帯収束帯が最も北寄りに位置する7月ごろには,その影響下に入っています.そのせいか,石垣島では一年中で6,7月ごろに最も曇りの日が多くなり,70−80%以上の確率で曇ります(Weather Spark,2022.4.25.現在).降水量は7月はやや少ないものの,6−10月にかけて一年で最も多くなります.また卓越する地上の風向は,5−8月は南から南南西で,9月ごろから北北東に変わり,以降それが続きます(以上気象庁,2022.4.25.現在).時期はずれていますが,上記の西インド洋と似たところがあります.

 八重山諸島で夏に羽化したウスバキトンボが,その後どの方向に移動していくかといった問題に関しては,いまのところほとんど調査されていないと思われます.今までの議論をもとにすると南への移動が考えられるので,北への移動ばかりが注目されている日本の現状を見たとき,そこには面白い研究テーマが存在するように思います.同じように7月ごろに熱帯収束帯が位置する渤海(中国黄海の奥,図11参照)の研究では,南への移動が示唆されています(Feng, 2006).



参考文献
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